さて、今回は百年戦争における最初の陸上の大規模な会戦、クレシーの戦いについて語っていきます。

 百年戦争について高校の世界史で習うとき、たいていこの戦いについて書いてはいるものの数行で終わることが多いと思います。

 しかし、序章でも申しました通り、この百年戦争で起きた出来事というのは決して1行で終わらせるようなものではない、少なくともこのアメーバブログで5行は欲しい! と思っておりますので、今回もたくさんクレシーの戦いについて書いていこうと思います。

 

 前回はフランス北西部ノルマンディーに上陸したエドワード3世率いる軍が、クレシーという場所でフランス軍と衝突したという内容までを解説いたしました。今回はこの戦いの趨勢と、その後の英仏情勢についてお伝えします。

 クレシーの戦いにおいての両軍の戦力差は、フランス側のほうが大きな優位を取っていました。兵力はイングランド軍がおおよそ1万に対し、フランス軍はその倍以上と言われています。イングランド側が長い行軍で疲労がたまっていたのに対して、フランス側は騎行(シュヴォシェ)によりイングランドに対するやってやる精神が爆発寸前。

 そんな状態の英仏は、夕方に激突する。最初に攻撃を始めたのはフランス側からでした。

 エドワード3世は小高い斜面の上に落とし穴や杭で守った陣地を築き、重装歩兵と弓兵を交互に配置しました。実はこの戦術は、この王の時代にスコットランドとの戦いの間で開発されたモード・アングレとよばれるイングランドの必殺陣形だったのです。

 一刻も早く目の前の英軍を潰したいフランス兵たち。騎士たちが勇んで、イングランドの陣地に攻撃を仕掛けました。

 ところが、まずそこで落とし穴に嵌ります。落とし穴を突破しても、重装歩兵がフランス騎士たちの前に立ちはだかります。

 そこに対して、少し突出したところにいたイングランドの弓兵たちが高威力の弓射攻撃で鎧を貫き、次々と攻撃してくるフランスを仕留めていきました。イングランド軍は側面を村や自然物などで固めていたので、側面攻撃などもできません。

 結局、フランス側は戦力差ではイングランド側に対して圧倒的な優位を持っていましたが、エドワード3世の戦術の前にあえなく敗北することとなりました。

 

 さて、この戦いにおいてイングランドを勝利にもたらしたものはなんだったのでしょうか。

 その一つといえるものは、イングランド軍の持つ弓がフランスのそれより強力であったことです。フランス軍の弓は、弩あるいはクロスボウと呼ばれる機械式の弓でした。矢をセットして引き金を引くことで発射することができましたが、矢のセットに時間がかかるという大きな弱点を持った代物でもありました。

 一方、イングランド軍の弓は非常に大きなロングボウと呼ばれる弓。日本の弓と似たような高威力長射程の弓で、さらに争点にも時間があまりかからないという優れモノでした。

 このような装備の差やモード・アングレの影響で、フランスはイングランドに敗北を喫することとなったのです。

 

 そして、この戦いは教科書にも出てくるイギリスの英雄、エドワード黒太子の初陣でもありました。

 エドワード黒太子はイングランド軍の右翼側に陣取っていました。彼の軍は向かってくるフランス軍に対して危険な状態にあり、そのことを彼の部下が父であるエドワード3世に伝えます。しかし、そこで王は援軍を送らず、彼が戦い抜き勝利の栄誉を得ることを望みました。

 結局、クレシーの戦いでイングランド軍が勝利すると、エドワード黒太子の初陣は彼にとっての大きな栄誉となりました。

 

 このクレシーの戦いが終わった後、百年戦争はどのような展開となったか。クレシーの戦いで敗北したフランス軍は敗走し、イングランド軍は次にカレーと呼ばれる港湾都市へと進みます。(ちなみにこれを書いている日の夕食、カレーです。美味しかったです。)
 カレーではしばらくフランス軍が粘っていましたが、そこで両者の戦いに待ったをかける者がいました。

 待ったをかけた存在は、またまた教皇。フィリップ4世が起こしたアナーニ事件でアヴィニョンに送られ、『教皇のバビロン捕囚』とも呼ばれた状態にある囚われの宗教トップです。

 しかし、囚われの身ではあるものの、当時の西ヨーロッパで最強クラスの栄誉を持っていたことには変わりありません。教皇のツルの一声で、カレーが落ちる前に戦闘は一度中断されます。

 しかし、交渉は難航。そうしている間にもイングランド軍はカレーへの攻撃を再開。攻撃が始まってから十一か月後に、ついにカレーは陥落しました。

 

 カレー陥落ののち、フランスのフィリップ6世は自ら教皇庁に仲介を依頼し、両軍は九か月の停戦に至りました。

 しかし、この休戦は九か月を超すこととなります。その理由はイングランドでもフランスでもなく、とある恐ろしい災厄がヨーロッパ全体を覆ったことにあったのです……。

 

 ということで、今回はここまでになります。

 次回はヨーロッパを苦しめたこの災厄と、フランス国内の争いについて解説していきます。

 今回の参考文献、下に載せておきますのでよかったらご覧ください。

 

 英語版Wikibedia-Battle of crecy 

 

 

 

 さて、パート2です。

 前回解説した部分では、イングランドの国王エドワード3世がフィリップ6世に代わりフランスの王の位も得ようとフランスに対して1337年に宣戦布告した、ここまで進みました。

 ということで、今回は主にエドワード3世が宣戦布告した1337年から1346年までの戦いやできごとについて語っていこうと思います。

 

 さて、前回の宣戦布告から一年後、エドワード3世は低地地方(現在のオランダやベルギー)に上陸します。もとよりこの地域では良質な織物が生産され売られていたのですが、フランドルとも呼ばれるこの地域は以前よりイングランドと友好的であったことやエドワード3世が以前より揺さぶりをかけていたこともあり、当時ここを支配するフランス貴族に対する反乱が発生していました。これに対してフィリップ6世も対抗しようとしますが、教皇の停戦呼びかけにより会戦には至りませんでした。

 そしてほぼ同時期に、フランス側も攻勢をかけていました。イギリスの都市ポーツマスに船で襲撃をかけるなど海上での作戦を進めていましたが、戦果が得られないまま大きな戦いもない状態がしばらく続きました。

 

 しかし、1340年に入ると、百年戦争が始まって最初の大きな戦いが発生しました。

 その戦いは『スロイスの海戦』と呼ばれる海上戦であった。この戦いが発生する少し前にエドワード3世はフランドル地方の勢力と同盟を結び、40年2月にヘントという現地の都市において自らがフランスの王に即位したと宣言しました。

 そして6月に、ついに前述のスロイスの海戦が発生しました。エドワード3世率いる船団はフランスのそれより数は少なかったが、フランスはこの戦いに置いて初動対応がうまくできず、その初動の遅れがたたってフランスはこの戦いで敗北することになったのです。

 この敗北の影響で、エドワード3世は再びフランドルに上陸して再びフィリップ6世に対して挑戦状を突き付けることになりました。

 

 そして翌年になると、フランスの西部にある半島にあるブルターニュ地方において、ブルターニュの公爵がカペー朝と同じく子を残さずして死亡しました。これによって、フランス国王の座とともにブルターニュ公の座もめぐって、イングランド派とヴァロワ朝派の戦いが発生しました。

 この戦いをブルターニュ継承戦争といい、これ以降何十年も続く大きな代理戦争となったのです。ブルターニュにおいて、イングランド側の派閥であったのがモンフォール派といい、反対にヴァロワ朝側の派閥はブロワ派といいます。

 

 このようにすこしずつイングランドとフランスの戦い、あるいはその代理戦争の様相ができてくるのが百年戦争の最初期でした。スロイスの海戦やブルターニュ継承戦争の開始からしばらく経つと教皇クレメンス6世によって両国の休戦が勧告され、この百年戦争の中で何度かある休戦協定の最初のものが締結されました。

 しかし、その後の完全な平和協定には至りませんでした。両国の主張や要望において合意が得られず、フランス南東部のアヴィニョンという都市にある教皇庁(フィリップ4世がアナn……アナーニ事件により、ローマからしばらく移されている)における交渉は44年に完全に決裂。45年になるとエドワード3世は再びフランスに対して遠征をすることを計画した。

 

 そしてさらにその翌年の1346年の7月に、エドワード3世率いるイングランド軍がフランス北西部のノルマンディー地方に上陸。この上陸の報を受けたフィリップ6世は全臣下に召集令を出して、大規模な戦いに備えることになる。

 フィリップ6世はパリ南方での会戦を申し出たが、エドワード3世は自らにとって有利な場所を求めてフランス北部を移動し続ける。このとき、エドワード3世率いるイングランド軍は騎行(chevauchée)と呼ばれる破壊、略奪しながらの進撃を行い、数百キロもの長距離を騎行したのちにクレシーという場所で百年戦争初の大きな陸上における戦いが発生することになりました。

 

 この戦いを、クレシーの戦いといいます。このクレシーの戦いが本格的な百年戦争の始まりであるとともに、エドワード3世の息子であり超中二病的なお名前の黒き貴公子、エドワード黒太子の初陣もこの戦いです。

 では、次回はこのクレシーの戦いやその後数年間に起きた出来事について紹介していきたいと思います。

 百年戦争最初の大規模な陸上戦とその戦術、フランスとイングランド両国の動きなど、さまざまな視点から解説をしていこうと思います!

 

 ここまで見ていただき、ありがとうございます!

 今回の参考文献を下に載せておきますので、よかったらご覧ください。

 

 

 

 

 はい、本日も書いていきます。

 基本的にこのブログで書く内容は、小説投稿サイトと異なりある程度史実に沿う形にしようと思います。

 概説編を始めるにあたり、まずはこの百年戦争というものが起こるきっかけについてお話しようと思います。

 

 始まりは1328年のこと。

 そのとき国王であったシャルル4世が男子を残さずに死亡し、そのほかの兄弟も若くして亡くなってしまったことで、王やその兄弟の親戚であったフィリップ6世という王様が生まれます。

 

 さて、このフィリップ6世という王様が、後世に『幸運王』と呼ばれるほど運がいい王様でした。

 まず、生まれ的にすでに運がいい。ただヴァロワ伯という伯爵の生まれである、というだけではありません。彼のお父さんが実は、ヴァロワ伯シャルルというとてつもない国民的英雄であったのです。このヴァロワ伯シャルルというのは兄であるフィリップ4世という王のもとで数々の戦いで勝利を収めた実績があり、フィリップ6世は彼の息子として登場したのです。

 (ちなみに、ヴァロワ伯シャルルの兄フィリップ4世が起こした事件として、高校生男子を興奮させたアナーニ事件があります)

 

 次に、アナーニ4世──ではなく、フィリップ4世が残したシャルル4世含む王太子がみな亡くなってしまい、結果的に席が回ってきたというのもある種幸運ともいえる、かもしれません(人が死ぬ案件で幸運、というのも変ですが)

 最後に、少しあとの話にはなりますが、治世の末期に発生したペストの大流行において、フランスは(周辺国よりかは)ある程度抑えめな被害で済んだことも、彼の治世下で起こった幸運のひとつでしょう。

 

 さて、ここで3つ挙げた中で、タイトルにある『運の良さが原因で戦争が起きる』という文言。百年戦争の原因となった彼の幸運はズバリ、真ん中にある『王太子がみな亡くなって、彼自身が王になること』なのです。

 

 この流れについて説明します。

 シャルル4世の死によって、フィリップ4世の系譜は途絶えてしまいました。しかし、ここだけ見ると「ああ、途絶えちゃったけどフィリップ6世が王様になれたからまあ……よくなぁい?」と思われる方もいるでしょう。

 しかし、ここからが百年戦争の面倒くさいところなのですが、実はこの時まだフィリップ4世の子供自体は生きていました。その子供の名前はイザベル、すなわち女の子。王位継承権自体は持っていなかったのですが、彼女はフランス王家の血を受け継ぐ立派な王の嫡子でした。

 ところが、そのイザベルはある家に嫁いでいたのですが、その嫁ぎ先が問題でした。その嫁ぎ先はなんと、イングランドの王家であるプランタジネット朝だったのです。

 しかも夫はイングランドの王様であるエドワード2世。この夫婦には王朝断絶の時にはすでに子供がおり、その子供がなんとイングランドの国王になっていたのです!

 

 その国王の名はエドワード3世。ここから50年もの長きにわたってイングランド、そしてその支配するフランスの領土を支配することになる王となる存在です。

 エドワード3世が即位したのが1327年、そしてフィリップの系譜であるカペー朝が断絶しフィリップ6世が即位したのが翌年1328年。即位したてのエドワード3世にとって、これはフランスへの影響力を強めるためのまたとないチャンスでした。しかし、ここから戦いが始まるにはまだ少し時間が空きます。

 

 フィリップ6世が即位しヴァロワ朝が成立した翌年に彼はアキテーヌ公の位に任ぜられることになります。彼はイングランドの国王でありながら、フランスのいち貴族も兼ねていたのです。

 このとき、エドワード3世というイングランドの王でありながら、彼は自らより正当性が低い(と彼が思っている)フィリップ6世に対し臣下の礼を取ることを一度は拒否しました。しかし、後日彼はアミアンという街に向かい、そこで一度は拒否した臣下の礼を取り、正式にアキテーヌ(フランスの南西部)の公爵へと任ぜられたのでした。

 

 そして、来たる1337年。ヴァロワ朝が成立してから9年たったこの年、イギリスと敵対していたスコットランド(英国北部にあった国家)をフランスが援助することを決定し、それからしばらく経つとフィリップ6世はエドワード3世の所領であるアキテーヌ公領の没収を決定。

 これに対抗する形で、エドワード3世は自らがカペー朝の出自を持つ母イザベラがおり、前王シャルル4世のおいであるとしてフランスの王位を請求し、彼はフランスの王に対し宣戦布告をすることになった。ここに、1世紀以上の長きにわたる戦いである、英仏百年戦争が幕を開けたのであった。

 

 まとめると、カペー朝が断絶したことにより、フィリップ6世が初代王であるヴァロワ朝が成立。しかしカペー朝の血を引くイングランド王エドワード3世がアキテーヌ公領没収などをきっかけにヴァロワ朝フランスに対して宣戦布告したことをきっかけに、英仏百年戦争が起きた、というわけです。

 ということで、ここまで読んでいただきありがとうございます。

 下記の参考文献、よければお読みいただければ幸いです。

 

 

 

 

 

うまいみそかつが好きだ。

揚げたてのみそかつが好きだ。

我が家の近くにある蕎麦屋のみそかつにかじりつく、これ以上の幸福はない。

名古屋で食べたみそかつ、あれはうまかった。

来年の冬辺りに、また食べに行きたい。

でも、ロンドンにいかねばならない。嗚呼無常。

 

というわけで、名古屋で買ったものを紹介します。

 

まあ、みそかつが好きだといいつつ、3つ買ったうちの1つがまだのこっているんですけど。

消費期限、大丈夫かなあ……。

 はい、わたしの独り言にシリーズを設けました。

 題して『百年戦争のお話。』はい、とても単純です。

 

 では、そういうわけでまず最初のお話からしていきましょう。

 

 おそらくみなさん、英仏の百年戦争というものを一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。

 中学までで世界史はやめたという方も、おそらくジャンヌダルクくらいは知っているかと思います。

 

 しかし、百年戦争というのは教科書の数ページで習うだけではヒジョーにもったいない、そう思います。

 百年戦争というのは文字通り、だいたい100年にかけてイギリス(当時は主にイングランド)とフランスが争った戦いなのですが、なにしろ100年もあるわけです。その中には、百年分の面白さが詰まっているわけです。

 そもそも、時代がまず面白い。14世紀から15世紀というのは、まさに「中世ヨーロッパ」というものから少しづつ近世に移っていく過程。そんな中で起こった大きな戦いというのは、時代を進歩させるのにとても大きな役割を担うというわけです。

 また、その中で起こるさまざまな戦い、ドラマというのは、我々が子供時代に読んだ少年漫画をも思い出させるようなアツさあり、涙ありのエピソードがてんこ盛りなのです。その中にも小説的脚色の余地があって、非常に書きたい題材だと思います。

 

 こんな面白い百年戦争を、教科書では『イングランド相手に劣勢だったフランスが、ジャンヌのおかげで打開して勝った』としかおおよそ書かれていないのは本当にもったいない、と感じました。(もったいないという単語を何度使うのでしょうか、この人は)

 それと同時に、この面白い百年戦争についてもっと皆さんに知ってほしい、と思います。なので、私はこのブログ、そしてカクヨムの小説で伝えることで、少しでもこの面白さを広めたい、というわけであります。なので、こちらでちょいちょい書いていこうかな、と思います。

 

 だいたいの記事、あるいは小説の参考文献として使う本はこちらになります。

 アマゾンのリンクを下に貼っておくので、よかったらご覧ください。

 ちなみに私はだいたい大学やら街の図書館やらで読んでおります。(大学卒業したら多分買います)

 

 

 

 

 

 

 

初酒や 味は慣れねど 宵回る

 

ってな感じでした

どうやら私はお酒をのむと笑ったり歌ったりするみたいです

きもちいい!

でも米酒はあまり好きな味ではない!やーやーなの!
あと「早くしろ」とか言って俺の0時00分の購入の夢を壊した店員!許さないからな!滅ッ!

私実はお米が大好きなのですが

お米からできるお酒というと日本の米酒なのですよ

なので米酒を飲めば幸せな気分になれるのかなあ?と思っております
コンビニにもいろいろ売ってるようなのでテケトーに買いますわ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

米さ米種だ
のまのまイェイ!!


のまのまイェイ!!

 

のまのまのまイェイ!!