今回はクリストファーノーランのSF映画テネットを考察してみたいと思います。

 

まずこの映画の内容ですが、結論から言うと超複雑なタイムトラベルものですね。複数の登場人物が時間を行ったり来たりする超複雑なタイムトラベルものです。一応、映画の中の説明ではこの原理はタイムトラベルではなくエントロピーの減少であると説明されているのですが、実質的に起きていることはやはりどう考えてもタイムトラベルなんですね。

 

映画の中の説明ではエントロピーの減少すると時間が逆行しているようにみえると説明されているわけですが、この説明ではどう考えてもこんな現象は起きようがないわけです。なぜなら物質のエントロピーの減少しても時間を遡る必要はないからです。

 

エントロピーの減少すると時間が逆行しているようにみえるという現象は、例えば人間の老化現象で考えてみるとわかりやすいですね。通常我々の肉体はエントロピーが増大していっているわけなんですが、これはつまり肉体の秩序が徐々に崩壊していっているということです。

 

肉体の秩序が徐々に崩壊していくと、細胞が正常に再生されなくなって肌がしわだらけになっていったり、あるいは病気になったりするわけです。逆にエントロピーが減少すると肉体の秩序が回復して肌がすべすべになったり、病気が治ったりするわけですね。つまり若返るわけです。そしてこの現象を他者から見ればこれは時間が逆行したように見えるというわけです。

 

しかしこれは別に時間を遡ったわけではないわけではないんですね。あくまで肉体のエントロピーが減少しただけです。ですからまあこの映画の中で起きていることはやはりエントロピーが減少などではなくれっきとしたタイムトラベルなわけで、この映画はやはりタイムトラベルものだと言わざるえません。

 

しかしまあそうした文句はさておき、この映画を純粋にタイムトラベルものだと考えると極めて面白いタイムトラベルものだということは間違いないですね。

 

ではいったいなぜこの映画がそんなに面白いかというと、それはタイムトラベルを見える化したからだと思います。通常のタイムトラベルものだと出てくるは時間を順行している自分だけです。つまり時間を逆行している自分はタイムマシンの中にいるわけですから世界の中には出てこないわけですね。

 

しかしこの映画に出てくるタイムマシン(回転ドア)は自分の体でもって時間を遡るという今までにないタイプのタイムマシンですから、時間を逆行する自分も世界の中に出てくるわけです。その結果、時間を順行する自分と逆行する自分が同じ時間に複数入り乱れるという今までのタイムトラベルものにはないてんやわんやな状況が生まれるわけですね。

 

それを象徴するシーンがあのオスロ空港での時間を順行する主人公と逆行する主人公との格闘シーンで、今までに見たことがないとんでもないヘンテコな格闘シーンになっています。

 

結局のところこの映画はこのヘンテコな格闘シーンを撮りたいという動機だけで作られたのではないかと思うのですが、確かに時間を順行する自分と逆行する自分が出くわすことによるてんやわんやは、今まで見たことのない映像を生み出すことに成功していますね。そういう意味ではこれはやはり一見の価値がある映像だと思います。

 

 

 

鈴木英人のALL TIMES作品集が発売になっています。いわゆる音楽でいうところのベスト盤ですね。

 

鈴木英人のイラストで一番いいものはやはり初期のアメリカの風景を題材にした作品です。世界中の人達が憧れた50年代のアメリカの姿、偶像としてのアメリカンドリームの世界を表現したようなイラスト群ですね。

 

派手なアメ車にコカ・コーラなどの看板、ネオンサイン、高層ビル群、そして青空と美しいビーチ。こういった偶像としてのアメリカンドリームの世界は今見ても憧憬を感じますね。

 

もちろんこういったアメリカンドリームの世界が実際に存在したわけではなくあくまで偶像なのですが(現実は常に醜い)、確かに50年代のアメリカの雰囲気がこういったキラキラした理想を追っていて、皆がこういった美しい世界に住みたいという願望を共有していたわけです。

 

今となっては全てが幻だったわけですが、それだけに鈴木英人のイラストを観るとまるで本当にこんな美しい世界が本当に実在したかの様に感じられてうっとりしてしまいますね。

 

 

 

今回は映画トゥルーマンショーを考察してみたいと思います。

 

トゥルーマンショーのラストは一般的にはハッピーエンドだと思われているわけですが、実はそうではないんですよ。トゥルーマンはトラウマを克服してスタジオという監獄から脱出したように見えるわけですが、結局のところスタジオの外も監獄だったというオチなんですね。

 

トゥルーマンの人生は多くの人たちの娯楽になっているわけですが、トゥルーマンショーを見ている人たちもまた監獄に住んでいる住人なわけで、トゥルーマンの人生と何も変わらないわけです。結局のところ人の人生そのものが監獄なのではないのか?というのがこの映画の本当のテーマなんですね。

 

ではトゥルーマンが本当の意味でこの監獄から出る方法はあるのでしょうか?

 

じつはその方法が一つだけあります。

 

それはそう、死んでしまうことです。

 

ラストシーンではプロデューサーが海で嵐を引き起こしてトゥルーマンを溺れさせて追い詰めるわけですが、これはつまり本当に監獄から出るには死ぬしかないんだぞということをトゥルーマンに教えようとしているわけですね。

 

これに対してトゥルーマンは死にあらがったので、プロデューサーは元の監獄生活に戻るようにトゥルーマンを促します。それは監獄とはいえとても恵まれた居心地のいい監獄であり、多くの人たちがうらやむような監獄生活です。

 

しかしトゥルーマンはこれを拒否します。つまりトゥルーマンが選んだのは過酷な方の監獄生活だったという結末なんですね。

 

ではなぜトゥルーマンはこの様な選択をしたのか?

 

理由は説明されていないのでよくわかりませんが、理由があるとすれば居心地のいい監獄の方は嘘にまみれているということですね。逆に過酷な方の監獄は嘘のない本当の世界です。

 

そしてこれはまるでマトリックスに出てきたあのシーンを思い起こさせます。モーフィアスが赤いカプセルを飲むか、青いカプセルを飲むかをネオに迫るあのシーンのことです。

 

この選択は行くも地獄、戻るも地獄という選択なのですが、トゥルーマンもまたネオと同じく真実の方を選んだというわけですね。