私はこの世界に生きている事を当たり前の事だと今まで思っていた。私が物心ついたのは小学校に上がったばかりの頃。一番古い記憶は4〜5才くらいのものだが、自分の存在について考え始めたのは小学校低学年の頃だ。自我の目覚めというものだ。
死ぬのが怖くて眠れない夜を小学校低学年の頃に経験していた私は、最近では死ぬ事は当たり前の事でありそれ程までに恐怖を感じていなかった。しかし、人は本当に死に直面したら、死ぬ事をどう感じ、その事をどう思うのだろうか?
その時の私は自分の人生に煮詰まっていた。転職先が決まって慣れない仕事も一応一人前にやれる様になった。金銭的にも少し余裕が出て来た頃である。「今日は13日の金曜日だな。何か不吉な事でもあんのかなぁ。」私は仕事に向かう為に一週間の最終日の早朝、原付きバイクを走らせていた。いつもの交差点そこは信号の無い見通しの悪い場所で日頃からちょっと危ないなと思っていた。車通りの多い日中なら必ず一旦停止して左右の確認をして出る。私はコレをいつも面倒くさいと思っていた。そんな私は早朝の交通量の少ない時間帯は減速しながら一時停止せずに本線に合流していた。止まる事もあったが、その時の気分で止まったり、止まらなかったりしていた。
仕事でミスを立て続けに起こした私はモヤモヤしていた。趣味の方でも面白さを感じなくなり、自分の人生に行き詰まりを感じていた。「あー、また仕事に行かなきゃいけない。」そんな思いを押し殺して家を出た。早朝の道路は原付きでかっ飛ばすには好都合。車が来ていなければ信号無視もしていた。危険な行為でいつか事故をするかもしれないという思いも持っていたが、出来るだけ時間をかけずに早く職場に着きたいという思いの方が強かった。私の職場は原付きで通うにはちょっと遠くて毎日の通勤を負担に思っていたから尚更だ。それ以前は自転車で15分の所に職場があった私はバイクで40分かかる通勤に嫌気をさしていた。
今日は13日の金曜日だから、何かあんのかなぁ。あの交差点の手前でそう思いながらも、今まで自分の人生でいつも13日の金曜日には何も無かった事を思い出していた。そして、その時の私の気分はゆっくり確認しながら出て行けば大丈夫だとそう思っていた。ヨシ行けると思った瞬間には私の真横に白い車が既に迫っていた。すり抜ける事も出来そうなくらいだったが、車のスピードはそれを許さない。車のバンパーに接触してバンパーが割れて飛んだのが見えたが、それが自分の右太腿を深くえぐっていた事には気付かなかった。私は急ブレーキをかけた車の前方5メートル先に飛ばされて腰から落ちた。その衝撃で反転し、腹ばいになった私の背中に腰から突き上げる様な激痛が走った。右の小指も何か痛い。そこに目を向けると小指の爪が浮き上がり出血をしていた。「大丈夫ですか?」と少し怯えた様な小さな声で私をはねた運転手が私の背中を恐る恐る触れた。軽く触っただけの感触が私には激痛だった。「やめてくれ」とも言えず私はただただ痛みに声を上げていた。
「何処が痛いですか?」救急隊員の声が聞こえる。救急車の中で私は「やってしまった。仕事先に連絡しないと。」と今の自分ではどうしようも無い事を考えながら「右の骨盤が痛い。」と救急隊員に告げた。 事故した場所からすぐ近くに手術に特化した病院が有り、私はそこに担ぎ込まれた。病院に入った私は緊急連絡先を聞かれるもスマホが大破して電源が入らない。作業ズボンの右ポケットに入れていたスマホは私の右太腿と車に挟まれる格好になり、原型は保っているもののバリバリに表面のガラス部分が割れていた。その後CT撮影、応急処置が終わった私はICUの病室で外科手術を待っていたら2人組の警察官が訪ねて来た。警察官が手渡した紙には事故の相手方の名前と携帯番号が書いてある。その紙は表側に警察署交通課の連絡先が印刷してあった。続く