この日の出店前の探訪は、神戸市切戸町にある『兵庫住吉神社』からスタートです。
御祭神
住吉大神(上筒之男命・中筒之男命・底筒之男命)
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと/神功皇后)

神戸港の繁栄と安全の為に大阪 住吉大社より勧請され、地域の方々より厚い信仰を受けています。
港のある街ですから、神戸には同様の思いで勧請された住吉神社は当然多くあるのですが、
今回こちらの神社を選んだ理由は、県指定重要文化財でもある『清盛塚』を見るためです。

元々は現在地より南西11mにあり、弘安9年(1286年)に北条貞時によって建立された物であると伝えられています。
平清盛の墓ではないか? と長く信じられてきた十三重の石塔は、大正12年(1923年)の移設に伴う調査により墳墓ではない事が分かり、現在は供養塔であると言われています。
清盛塚に並ぶように建つのは『琵琶塚』です。
こちらも元々は小道を挟んだ北西にあり、平面が琵琶の形をした塚であったため、江戸時代より琵琶の名手であった平経正(たいらのつねまさ/平清盛の弟・平経盛の長男であり、平敦盛の兄)の墓と信じられてきました。
石碑は明治35年(1902年)に有志により建てられた物で、大正時代の道路拡張の際に清盛塚と共に現在地へ移設されています。
どちらも墓ではなく供養塔なのかもしれませんが、後世の人々がその死を悼んで手を合わせてきた事が大切であり、
それこそが本来の『墓』の意味だと思います。
これだけこの神戸に住む人たちに、平清盛を始めとした平氏の人々が愛され大切にされてきた理由は、
ただ単純にその悲しい末路を思ってという事だけではありません。
石塔の横には神戸出身の彫刻家/柳原義達作の、平清盛の像が建っており、
穏やかな眼差しの先を流れる兵庫運河は、大輪田泊(おおわだのとまり/兵庫港)と繋がります。
当時平清盛は、大輪田泊を使用して大陸の南宋(なんそう/古代中国の王朝の一つ)と貿易をしていました。
治承4年(1180年)には、京都から摂津国福原(現在の神戸市)に都を移します。しかし残念ながらこの遷都はわずか半年で頓挫してしまいました。
ですがこの平清盛による大輪田泊の貿易と遷都が、現在の神戸港の基盤を作ったと言っても過言ではないのです。
義理堅く情け深い人物であり、人柱の廃止や源頼朝・源義経に対しての温情。
また、福原(神戸)に目を付け第2の都として発展させようとするなど、先見の明を持つ人物であったとも言われています。
毎回歴史上の人物を語る時にはお伝えしていますが、どの角度でみるのか? の違いで、その行いは善にも悪にもなります。
今を生きる私たちも然り。
相手の言動の背景を知れば、一概に悪とは言いきれない事が多々あるのです。

次の探訪地へ向かう途中、『清盛橋』と名の付く橋を通りました。
兵庫運河にかかる橋は、昭和62年(1987年)に橋の拡張に伴い架け替えられた物で、清盛塚に近い事から市民の要望により清盛橋という名前になったといいます。

橋の欄干には源平合戦や、

平家物語のレリーフが飾られていました。

さて。やってきたのは『海向山 阿弥陀寺 あみだいじ』です。

こちらのお寺には、『魚の御堂礎石』という史跡があります。
平清盛が魚を供養するために建てた魚の御堂の礎石とされる石が、庭園の池中に置かれていました。

また、この石は『楠木正成の供養石』とも言われています。
建武3年(1336年)5月25日。
湊川の戦いに大捷(たいしょう/圧倒的に勝つこと)した足利尊氏が、諏佐の入江の奥にあった魚の御堂で楠木正成の首改めをしたと言われる礎石である。
と、由来書に書かれていました。
その後黒田長政より絵屋(鷹見家)が賜った物を、阿弥陀寺に寄贈したとされています。
昔の争いを水に流し平和を祈願して、中庭より池中に納められたのだそうです。
また、この大石は『明石 あかし』の語源となる赤石であるとも言われているそうですよ。

整えられた美しい阿弥陀寺の庭には、もう一つ時代を伝える大石がありました。
『加藤肥後守石場これより川南ひがし』と刻印された石。
元和6年(1620年)徳川大坂城再築普請に参加した加藤清正の嫡男『加藤忠広』が、石場を示す文字刻印をしたものです。
父・加藤清正も石に文字刻印をしていましたから、やはり親子ですよね。
※父・加藤清正の文字刻印のお話はこちらをご覧ください。
加藤清正の死後、三男ではありましたが兄たちが早世していたため家督を継ぐ事になった加藤忠広は、当時11歳という若さでした。
この文字刻印をしたのはそれから9年後。
20歳の加藤忠広です。
彼の人生にも様々なドラマがありますが、ここで語るとあまりにも脱線してしまいますので、このお話はまたいつか…タイミングが訪れた時にお話しますね。
阿弥陀寺を後にし、今度は入江橋へとやってきました。

清盛くんを写真に収め、この日の探訪は終了。
神戸ヒーリングマーケット2日目の出店に向け、会場へと車を走らせていると、車中から立派な大仏様が見えました。
どうしても気になって、急遽お参りさせてもらうことにします。

奈良・鎌倉と共に日本三大大仏に数えられる『兵庫大佛』は、延歴25年(805年)に最澄により創建された日本最初の密教強化霊場とされる能福寺に、明治24年(1891年)に建立された大仏です。

初代大仏は戦時中の金属回収で供出されたため、現在の大仏は平成3年(1991年)に市民の強い要望により市内の有力企業多数の協賛を得て、47年ぶりに再建された2代目であり、真の民衆立の信仰大仏なのだそうです。
そうした思いにより建立された大仏様だからでしょう。
お顔を拝見しているだけで自然と涙が頬を伝い、有難い思いが胸に押し寄せてくるのを感じました。
車で通り過ぎる一瞬でしたが、大仏様が視野に入りこうしてお参り出来た事に感謝しながら、境内を後にしようとした時です。

境内にはためく赤旗に目が止まりました。

平安末期の養和元年(1181年)。
平清盛公の薨去(こうきょ/皇族や三位以上の人が亡くなること)によって、
能福寺の寺領内にあった太平山八棟寺に、墓所・平相國廟が造立されたといいます。
しかし平氏滅亡と共にことごとく破壊され、能福寺を灰燼(かいじん)に帰しました。以後、廟が再建される事はなく、その存在すら忘れられていきました。
百余年後の弘安9年(1286年)、平氏一門の栄枯盛衰を哀れんだ時の執権・北条貞時がその近くに石塔を建て平清盛公の霊を弔ったとするのが、
最初に訪れた清盛塚と十三重の石塔であり、この事が能福寺の古文書に記されているそうです。
また諸々の古記録文献には、『京・愛宕山にて火葬荼毘に付して圓實法眼が全骨を持ち切り…』とした後の納骨場所は、この辺り一体の地域(福原)の様々な場所の記載が各々にされていました。
遷都をも決断したほどに兵庫を愛した平清盛の遺言に依り、福原まで全骨を持ち帰ったのであれば、
平清盛が仁安3年(1168年)にこの能福寺で出家している事も合わせ、昭和55年(1980年)に800回大遠忌を迎えるタイミングで、ここに平相國廟を建立復興したのだと書かれていました。

まさに平清盛に導かれ、私はこの地に参ったのだとしか思えない内容に、本当に驚きました。
しかもこの旅の始まりに、明智光秀を辿って訪れたと思っていた愛宕山は、平清盛にとっても荼毘に付した場所。
知らずに弔いの旅をしていたのだと驚いたのです。
※愛宕山登拝の記事はこちらをご覧ください。

お参りを済ませてから外観を撮影しようと境内を出ると、そこには『福原京史跡』と書かれた看板があり、
全くもって気付かずに参っていたので更にびっくりしたのは言うまでもありません。
この場所は清盛公が京を遷都した場所であり、後の一ノ谷の戦いにおいて陣営を置いた、その場所でした。
すると、なにやら巨石が道端に置かれているのを見つけ、再び車を停めました。
追い討ちをかけ続けている脚の筋肉痛も、どうやらピークは超えてきたかもしれません。
翌日も探訪が控えているので、早めに身体を休めました。
ーその⑧へと続く