917冊目『今を生きるための現代詩』(渡邊十絲子 講談社現代新書) | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

本書に興味深い記述がある。のっけから引用で始めたい。

一九六〇年代には、出版社ではない企業の入社試験に、その年のH氏賞(詩集にあたえられる新人賞)の受賞者を選択させる問題が出ることもあったそうだ。そのころ、同時代の詩は、一般常識の一部でありえたのだろう。いまでは考えられないことである。わたしが詩を書き始めた一九八〇年代は、それでもまだ、詩人や詩の世界は元気だった。詩の注文は一般の新聞や雑誌からもたびたびあったし、詩集を出せば、人気のある女性ファッション誌にも書評が出た(詩を「おしゃれなもののひとつ」ととらえてくれたのだと思う)。(序章、6頁)

この短い記述には、日本社会の大きな変化が凝縮されている。一九六〇年~一九八〇年代までは、詩は身近なものであったようだ。入社試験で出題されたり、メディアからの注文もあったくらい活況を呈していたらしい。しかし、著者が「いまでは考えられない」と述べるのが出版年の二〇一三年だとすると、この間に、詩の社会的地位はずいぶんと失墜したことになる。九〇年代に学生時代を過ごした私はこの変化を体験していないが、ここには人々の精神の大きな構造転換があるような気がする。

 

二〇二二年に、会社員のレジーさんという方が書いた本がきっかけで、「ファスト教養」という言葉が話題になった(719冊目『ファスト教養』)。「ファスト教養」とは、変質した教養観を示す言葉である。近年、本来熟慮を大切にするはずの教養が、簡単に社会を上昇するための都合のいい道具として使われようになっている。大学生が映画を早送りで観るように(703冊目『映画を早送りで観る人たち』)、とにかく内容を早く知りたい、大事なところだけ知りたい、手っ取り早く理解したいという知の退化が社会全体を覆っているが、おそらく、詩の失墜も、こうした背景があるのだろう。実際に、著者がこう言っている箇所がある。「日本のマスコミは、ここ二三十年、「やさしくて伝わりやすいのが善、むずかしくてわかりにくいのは悪」という洗脳を、総力をあげておしすすめてきた。だから、自分が洗脳されていることに気づかないまま、「ぱっと見て意味がわからない詩なんて存在価値がない」と言いきってしまう単純な人もいる。」(15頁)

 

その観点から眺めると、現代において、なぜ詩の地位がここまで失墜したのかも納得がいく。とにかく現代は、早く正解が知りたい、ざっと分かればそれでいいという風潮が著しい。こんな状況で、言葉の行間を読んだり、言葉の解釈にゆっくり時間をかけるのは、どう考えても「コスパ」が悪い。しかも、詩はいくら考えたところで「正解」が用意されているわけではない。現代人が詩から遠ざかるのも必然である。こうした現状を踏まえて、詩人の中には「詩は難しいものではない」と言って敷居を低くしようとするものもいる。もしかすると、前回紹介した『詩のトリセツ』(916冊『詩のトリセツ』)はそんな意図から書かれた本からもしれない。しかし、詩人である著者の考えは違う。著者は、難しい詩を簡単だなどとは決して言わない。むしろ、詩が難しいのなら難しいまま味わえばよいではないかと主張する。なぜなら、難しいことの中にこそ、たくさんの楽しみや喜びがあるからだ。「ちょっと考えてみれば、『むずかしい』は『やさしい』より確実におもしろくてたのしいことがわかる。」(15頁)

 

著者は、この本の中でお気に入りの詩を紹介しながら、自分なりの解説を披露している。解説とは言っても、正しい解釈を提示しようとしているのではない。詩を構成するために並べられた言葉の配置が、どのように自分の身体に通り、どのような化学反応があったのかを、できる限り言葉で説明しようとしている。著者の解説を読むことも詩を読んでいるのと同じような気持ちになる。特に私が驚かされたのは、著者の鋭い批判力である。男女の詩の詠み方の違いから近代的自我が男の発想に他ならないことを暴くところなどは、実に哲学的である(183頁)。著者のこうした強靱な批判力の土台となっているのは、詩を読むことで育んできた豊かな想像力であろう。アーザル・ナフィーシーが言うように、想像力とは、現実から逃れるアジールではなく、現実の矛盾を照射する批判力なのだ(608冊目『テヘランでロリータを読む』)。想像力はすぐさま強靱な批判力に転換する契機を秘めている。しかしながら、現代において我々にとってもっとも大事な想像力は、巧妙に萎縮させられている(644冊目『官僚制のユートピア』)。おそらく、詩の失墜は、想像力の簒奪を目論む新自由主義の完全勝利とパラレルな関係にある。もしかしら、詩は想像力を担保する最後の拠り所なのかもしれない。このことは、もっと大きく問われなければならない。