890冊目『なめらかな社会とその敵』(鈴木健 勁草書房) | 図書礼賛!

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本書の「はじめに」のところで、こう書かれてある。

この複雑な世界を、複雑なまま生きることはできないだろうか。

世界は複雑な現象に満ちている。個人も複雑であるし、そんな個人が集まって出来た社会はもっと複雑だ。私たちは複雑な世界を複雑なまま生きていくことはできないから、あらゆる壁を作る。国家はまさにその代表的なものだろう。国境線を引くことで内側では同胞意識を育む一方で、外側には敵愾心を向けたり、あるいは無関心を決め込むこともできる。そして何より問題なのは、国家は成員に「国民意識」を促し、排外的なナショナリズムを醸成し、しばしば戦争を生む要因にもなることである。むろん、それでも国家がなくなることは当分ないだろう。国家があることによるマイナス面よりも、国家が成員を囲い込むによる様々な恩恵の方がはるかに大きいものだと現段階において私たちは考えているからだ。国家がもたらす不都合はいくらでも挙げることができるが、その恩恵が上回る限りにおいて私たちはその負の部分を目を瞑って生きることできる。

 

そもそも、人間は複雑な世界をそのままに生きることは難しい。これは人間の認知の能力の限界から来る帰結である。私たちは世界の複雑な事象をそのまま理解することはできない。人間は、個人を属性で捉えてしまうし、現象を数値で捉え、しばしば抽象論で考えてしまう特性がある。いわば、複雑なものを単純にすることで人類は文明を築いてきたのだと言える。しかし、もし情報技術の進展によって、その認知コストを取っ払ってしまえるとしたらどうだろう。世界の複雑さをそのまま生きられるようになったとき、私たちの生はどのように変わるのであろうか。本書『なめらかな社会とその敵』が構想するのは、インターネット技術によって人間が複雑さをそのまま生きられるようになる世界線である。本書では、情報技術によって複雑性を社会システムに実装させる卓抜なアイデアが紹介されているが、ここでは著者の唱える「分人民主主義」の可能性について考えてみたい。

 

「分人」とは何か。それを理解するためには、「分人」の対義語である「個人」という言葉を考えて見る必要がある。個人は英語で書けばindiviualであり、それは、inという否定辞に、divide(分割する)という語が構成された形になっている。つまり、個人とはそれ以上分割できない存在として規定されている。語の定義的に、個人より遡ることができない以上、個人は近代社会における責任主体を担わされ、それと引き換えに自由意志を持つ者とされる。しかし、「分人」とは個人を分割する思想である。そもそも人間とは様々な思惑に分裂した複雑な存在であり、ジレンマや葛藤という言葉はその人間の分裂性を端的に示す言葉である。たとえば、万引きした人を許せないと思う一方で、その窃盗犯がここ数日何も食べておらず飢えている状況だったと知ったなら許してやりたくなる。ここに法と人情の分裂がある。人間として生きるということはこの複雑な感情にどうにか折り合いをつけるということであり、ゼロオアサムで判断を下せるのはそうあることではない。

 

これは選挙投票においても同じである。A党を支持する一方で、B党にもシンパシーを感じているといったことは、人間心理としてよくあることだろう。しかし、現在の「一人一票」の選挙システムでは、この個人の複雑な心情をそのまま表出することはできない。著者が提案する「伝播委任投票システム」は、分裂した個人をそのまま選挙システムとして反映させるアイデアである。既存の選挙システムでは、どれだけ葛藤を抱えたところでA党かB党かいずれかにしか投票できない。しかし、伝播委任投票システムでは、一票をさらに細分化し、A党に0.6票、B党に0.4票という形で投票することが可能となる。これを全有権者がこのような形で投票権を行使するとなると、膨大で複雑な計算が必要だが、著者によれば、それは技術的には簡単に解決できるのだという。個人の複雑さをそのまま表出できている点で、分人民主主義は個人民主主義よりも優れたものになる可能性を秘めている。

分人民主主義が否定するのはこうした自己の結晶化である。身体が生み出す矛盾した声を、矛盾したまま吐き出すことができれば、分人たちの新しい民主主義の可能性が顕在化する。174頁

この記事の最初の方にも書いたように、人間はその認知コストの関係から複雑な事象をそのまま理解することができない。資源を囲い込んだり(国境)、制御する制度を作り(権力)、自己が処理するテリトリーを確立する。シュミットの友敵理論は、まさに壁を作ることでしか生存しえない人類の生存様式の象徴である。分人民主主義はインターネット技術を駆使することで、この友敵理論を乗り越え、新しい民主主義の可能性を提示するのだ。しかし、大きな疑問も残る。分人ということは、つまり、主体的な個人を解体するということであり、そのような社会の下でまともな責任観念が発生するのかという問題がある。選挙システムでいえば、各政党に一票を割り当てることは、悪政を行う政党に投票してしまったことへの罪悪感を軽減してしまう可能性がある。つまり、分人民主主義の下では責任が融解してしまうのである。著者と大屋雄裕との対談でも、この責任観念の問題が取り上げられ、たとえば、国境がなめらかになったとき、当該知識でのトラブルは一体が誰が責任をもって対処するのかといった問題が残ることが論じられている(1)。そして、何より、本書でも述べられている通り、「敵」という概念は、抽象的な観念ではなく、進化生物的に発生した生命現象である。生物学的に見て本能的衝動とも言える壁をつくることへの欲望を、インタネート技術を駆使して解体していくことがはたして本当にいいことなのか、私には分からない。もちろん、私が戸惑うのも無理はない。なぜなら、この本は300年後の未来社会に向けて書かれた本だからである。3世紀先の未来を予想することにどれだけの意味があるか正直疑わしいと言わざるをえないが、未来はこのような斬新な社会改革を問う声で前進してきたこともまた事実である。「なめらかな社会」が持つ意味についてもっと考えてみたい。

 

(1)なめらかな社会は近づいているか | 【公式】攻殻機動隊グローバルサイト (theghostintheshell.jp)