824冊目『議論入門』(香西秀信 ちくま学芸文庫) | 図書礼賛!

図書礼賛!

死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

私の国語思想は、香西秀信氏の一連の著作にほとんど規定されていると言ってよい。香西氏の専門は修辞学(レトリック)である。修辞学とは古代ギリシャで栄えた説得術である。当時は、学校でも弁論術が教えられていたし、言葉巧みに相手を説得できる人物は称賛の的であった。しかし、レトリックはもはや死んだと言われることがある。たしかに現代においては、もはや真理は相手に説得の上で分からせるものではない。真理は、客観的なデータや統計、理論などで論証すれば済む話であり、そこにレトリックが入り込む余地はない。科学、理性を信奉する近代合理主義はレトリックを死に追いやったのだ。

 

しかし、野内良三が述べるように、説得術としてのレトリックは死んでも、人間の基本認識としてのレトリックは死んでいない(『レトリックと認識』NHKブックス)。人間にとって、レトリックは思考の原型のようなものである。私たちは、論理を凌ぐ価値をレトリックに見いだしてさえいる。私たちは、自分の意見を述べる場合、よく譬えを持ち出すことがよくある。例えば、「教師が雑務のせいで肝心の授業準備ができないなんて本末転倒だ。たとえば、シェフが仕込みも調理も大慌てでなんとかこなしているような店に行きたいと思うだろうか?」というような具合である。多忙さゆえに教師の授業準備時間がなくなってしまう問題点をわざわざ論証する必要はない。むしろ、このような譬えの議論の方がより効果的で、主張としてインパクトがある。

 

しかし、この譬えの議論は、実は論理的には何も論証したことにはならない。教師とシェフは、論理的には何の関係もないからである。実際、多くのレトリックの研究者は、譬えは「立証の手段としては脆弱」「あらゆる議論型式の中で最も無力な議論」「それ自身としては、何も論証はしないのだ」(149頁)と論理的価値を一切認めていない。しかし、とはいえ、このような譬えの議論は日常的に我々がよく耳にする議論の形式であり、小説、エッセイ、そして論理を重んずる評論においてすらもよく用いられる(たとえば、2018年東京大学国語・第1問を見よ。ここには典型的な譬えの議論が用いられている)。おそらく、人間は論理よりも、こうしたレトリックの方が好きなのだ。

 

しかしながら、今の国語の読解指導にはレトリックが全くといっていいほど教えられていない。人間の思考の原型であるレトリックを軽んじているのが、現在の国語教育だ。一方で、「論理」という言葉には重い価値が置かれている。「論理国語」という言葉まで出てくる始末である。私が受験生のときから、「論理的に読め」と言われてきたが、しかし、私には論理的読解と言っている指導者が、何をしようとしていのるか、正直よく分からない。論理的読解と高らかに謳いあげたはいいが、結局のところ、論理記号の接続詞にマークをつけて読むといった程度のことに終始しているだけだったりする。先日ツイッターで現代文講師の大御所が「論理を体系的に教えられる教師がどれだけいるのか」と慨嘆していたが、むしろ、今切実に求められているのは、レトリックを体系的に教えられる教師だろう。本書はそんなレトリックを体系的に学べる入門書として最適な本である。