793冊目『夢の浮橋 「源氏物語」の詩学』(ハルオ・シラネ 中央公論社) | 図書礼賛!

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『源氏物語』は、世界に誇る日本古典文学とされているが、一体、この作品の何がそんなに凄いのだろうか。本書は、ハルオ・シラネによる『源氏物語』の概説書だが、一般的なあらすじだけを押さえた量産型の解説本とは違い、源氏以外の物語作品との対比を多用しながら、『源氏物語』の特異性、その革新性に迫っている。まず、著者は、『源氏物語』というテクストを前にして、「作品の受容に暗黙の了解となっていた約束ごと(コード)や解釈上の前提のコンテクストの中に据えて」読むという方針を打ち出している(13ページ)。古典世界の解釈のコードとは何か。例えば、男女関係を例にとって見ると、当時は妻問い婚である。平安期の男女の結婚は、男性が意中の女性のもとに三日続けて通うことで、結婚という流れになるが(所顕)、『源氏物語』は、平安時代の常識を見事なまでに裏切っている。紫上、末摘花、明石の君といった個性的で魅力的な女性たちを、源氏は、自邸に引き取ってしまう。これは当時の男女関係ならびに結婚慣習からすれば、あまりにも常識外れである。紫式部は、このようにして現実に常にずらしながら、物語を盛り立てている。

 

『更級日記』では、日記の書き手菅原孝標女が、手に入れた『源氏物語』を夢中になって読む場面がある。『源氏』が世に出てわずか十年も経たぬうちに、『源氏』が広く流布していたことが窺えるエピソードだが、おそらく、当時の人々が『源氏』に魅了されたのは、『源氏物語』のこの革新性だったのではないだろうか。現実をあえてずらすというこの差異の手法は、人物造形にもあてはまる。たとえば、「帚木」巻で話題になった中の君の身分に属する紫の上は、皇族の血筋も引かず、政治的後見もなければ、社会的地位もない。それにもかかわらず、紫の上が源氏に愛される女性となったという物語の筋立ては、当時の氏族社会の宮廷の論理とは相容れない。むしろ、ここでは、血縁や政治的地位にとらわれない個人が強調されている。「上の品と中の品との弁証法は、中の品に特有の個性やメリットを称揚しているのみならず、氏族志向の平安社会の前提に対立する概念、すなわち、血縁や結婚の絆を越えたアイデンティティ-を持つ個人という思想をも強調している」(89頁)

 

さて、『源氏物語』の「桐壺」において、すでに天皇親政のテーマが打ち出されていることは、『源氏物語の世界』(790冊目)でも確認したが、この問題は、桐壺巻を越えて、物語全体に通底するテーマでもある。すでに皇族の血を引く娘が中宮になることはもはやありえないことになっていた摂関政治隆盛の時代において、「桐壺」巻で外戚政治を拒否し、更衣の身分を愛することや、「御法」巻で明石の君が中宮になることは、現実の政治をなぞるのではなく、むしろそれに正面から刃向かっている。著者は、「絵合」の巻で、秋好が頭中将の娘に勝利を収めるという設定にも同種の問題を見いだしているが、ただ注意したいのは、光源氏自身もまた摂関の地位を獲得していることである。彼は、秋好の養父であり、将来の中宮候補(明石の姫君)の父親だからだ。『源氏物語』では、王権と摂関が融合するという前代未聞な事態が発生している(56頁)。つまり、現実を凌駕しているのだ。こうした物語の革新性を、当時の読者は、まさに目の開くように読んだのではないだろうか。


紫式部が『源氏物語』を書く上で、多くの物語の文法を裏切っていることは、他にも様々な局面で確認できる。たとえば、『落窪物語』に代表されるように、主人公と継母との関係は、主人公が継母に一方的に虐げられるものとして描かれるのが、物語の定型である。しかしながら、『源氏物語』は、意地悪な継母という物語のお約束ごとを踏襲することはない(例外は、弘徽殿女御)。むしろ、『源氏物語』では、「継母が継子に与えうるエロティックな魅惑に焦点を当てている」(138頁)のである。源氏は継母藤壺を慕い、その恋慕の情が昂ずるあまり、姦通へと至ってしまうのだが、このようなスリリングな展開は、既存の物語の定型を打ち破ることでしか達成できないものであろう。こうした『源氏物語』の革新性に触れるにつけ、思うことは、紫式部は、一体どこでこのような独創的な想像力を身につけたのであろうか、ということである。宮廷勤めによって、実際の宮廷政治に肉薄する描写は可能だったにしても、そこからあえて、現実をずらすという着想の源はどこにあったのだろうか。紫式部は天才だったといえば(実際、天才であったろう)、たしかにそれまでだが、この卓抜した想像力の起源に迫りたいという思いを禁じ得ない。