774冊目『李光洙』(波多野節子 中公新書) | 図書礼賛!

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李光洙は、韓国近代文学の代表的存在である。李光洙が生まれた一八九二年は、まさに帝国主義の時代であり、朝鮮半島が侵略者の餌食にされようとしていた。日露戦争に勝利したことによって、アジアの近代国家の成功例として一気に存在感を増した日本では、アジア諸国からの留学生が殺到した。李光洙もその一人である。一九〇五年、李光洙は十三歳のときに、初めて日本に留学し、東海義塾に通った。李光洙が留学生として日本にいた一九〇七年、東京上野の勧業博覧会で、韓国の「賤業婦」(売春婦)を見世物として展示する水晶館事件が起こっている。アジアの一等国にのし上がったという誇りが、こうした周辺国への見下しとなって表れたのだろう。さらに一九一〇年には、日韓併合が公布された。これを受けて、李光洙は、次のように述べる。「力だ!そうだ力だ!日本は力で我が国を奪った。奪われた国を取り戻すのも力だ」(『わが告白』)。李光洙は、日本で朝鮮人差別を体験しながら、朝鮮の独立を心から願った知識人であった。

 

日本から帰国した李光洙は、一九一五年に再び、日本に留学することになる。しかし、一回目の留学が外国人としての留学だったのに対して、今回の留学は、帝国臣民としての「国内留学」であった。すでに独立運動に関わってた李光洙は、「排日思想」の持ち主として特高からの監視を受けながらも、早稲田大学文学部哲学科に通った。ちなみに、この時に李光洙が住んでいたのは、現在の早稲田松竹映画館があるあたりらしい。一九一九年、朝鮮青年独立団が、二・八独立宣言声明を発表し、李光洙もそれに関わっている。声明発表直後は、上海に渡ってからは、新韓青年党の活動に加わった。新韓青年党は、三・一独立運動後に、大韓民国臨時政府樹立宣言を出し、国務総理に李承晩、内務総長に安昌浩、そして『独立新聞』の社長に、李光洙が収まった。一九一七年に小説『無情』を発表したことを皮切りに、新聞で小説や論説などを書く機会も多くなった李光洙だが、小説を書く究極の動機は、「朝鮮と朝鮮民族のための奉仕」であるとしている。李光洙にとって、執筆は愛国的行為だった。

 

一九三七年六月七日、朝鮮内の民族主義を弾圧するために、治安維持法違反の疑いで多くの同友会員が逮捕され、李光洙も逮捕された(同友会事件)。そして、翌年には、思想転向を表明し、帝国臣民として内鮮一体を主張するようになる。名前も、李光洙から香山光郎という日本名に改名した。李光洙は、根っからの民族主義者でありながら、一九三七年の同友会事件をきっかけに、思想転向した親日派でもあったのだ。転向直後においては、それはあくまで朝鮮の固有性を持ちながら、日本人になることが、李光洙の考える内鮮一体の中身であったが、戦局が険しくなっていくにしたがって、ついには、「従来の朝鮮的な心を根こそぎ棄ててかからなければならぬ」とし、その上で、天皇に帰一して滅私奉公する真正普遍の転向が必要だと主張するまでに至る。皇民化教育によって、沖縄の人がより日本人らしさを内面化したように、李光洙も日本人以上に日本人となろうとしたのかもしれない。朝鮮や沖縄といった周縁でナショナリズムが過熱になってしまう逆説は、その背景に差別に耐えてきた苦しい逆境がある。

 

さて、一九四五年、帝国が敗戦し、朝鮮半島は解放された。朝鮮では、親日派の遺産を清算しようと、反民族行為処罰法で親日派を検挙した。李光洙もその一人である。李光洙は、調査委員会の尋問で「私は民族のために親日をしました」と述べたとされる。苦しい言い訳のようにも聞こえるが、あながちそうではない。というのも、李光洙は対日協力した理由のひとつとして、「虐殺者名簿」の存在を挙げている。当時、朝鮮総督府が、三万人を超える知識人名簿を作成していたという。これ自体はあくまで噂でしかなかったものの、日本が敗戦したときに朝鮮人大虐殺が起こるのではないかという危惧は非常に切迫したものだったろう。朝鮮半島では、その後、朝鮮戦争が勃発し、親日派の処罰どころではなくなってしまう。それどころか、南の体制を守るために、軍や警官などかつての親日派が、体制を守るために動員される。このときに、親日派を清算できなかったことは、今に至るまで韓国ではしこりを残しているが、李光洙の過去清算も、結局なされぬまま終わった。李光洙は、朝鮮戦争のさなか、北軍に連行され、北へと向かったが、その後の消息については不明である。