770冊目『アメリカ黒人史』(ジェームズ・M・バーダマン ちくま新書) | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

本書は、奴隷制からBLM運動までのアメリカ黒人の歴史を論じたものである。アメリカ黒人の歴史はそのまま米国の歴史でもある。一七九〇年の合衆国憲法の帰化法では、帰化権を白人だけに限定した。つまり、米国は建国の起源からしてレイシズムが発動しているのである。黒人は、遠いアフリカの大地で突然拉致され、船に押し込められ、「商品」として輸出された。船内では、暗くて狭い部屋に閉じ込められ、衛生環境も最悪だったという。この航海中におよそ15%の黒人が死亡している(29頁)。主に黒人奴隷を使用していたのは、米国南部である。綿花、砂糖のプランテーションを運営していた南部の白人は、黒人を奴隷として搾取することによって、富を築いていった。もちろん、このような夢も未来もない境遇のなかで、逃亡する黒人も多くいた。逃亡奴隷は、カナダやケンタッキーのような自由州を求めて北に向ったが、北部においても、南よりは多少マシというだけで、れっきとした黒人差別があった。そんな黒人の境遇に変化が訪れたのは、南北戦争である。

 

南北戦争の最中に、リンカーンが奴隷解放宣言(1863年)を出したことにより、この戦争は、南部の奴隷を解放するための戦争となった。北軍では、黒人部隊が結成され、戦果を挙げた(米国映画『グローリー』)。しかし、北軍の勝利によっても、相変わらず、黒人差別は続いた。いや、むしろさらに、陰湿で悪質極まるものになったと言ってもいいかもしれない。たしかに合衆国憲法修正一三条は、何ぴとも奴隷的使役は強制されないとしているが、しかし、これは、『13th 修正十三条』(米国 2016)というドキュメンタリー映画でも詳しく描かれているように、これは形を変えた黒人奴隷制の継続でしかなかった。というのも、この修正十三条には、「囚人を除く」という例外規定があり、以降、黒人を大量に拘束し、刑務所にぶち込むことで、この囚人労働をあてにした民間企業が、囚人を安価の労働力として使用し、利益を搾取する巧妙な囚人ビジネスを運営してきたからである。これは、なお現在進行形の問題だ。

 

レイシストはよく「差別ではない、区別だ」という。南北戦争以降の米国は、まさにそのような国であった。建前上、白人と黒人は平等にはなったが、しかしそれでも、黒人は白人に軽々しく接してはいけないという白人優越の考えは依然として支配的だった。公共交通機関をはじめ、レストランやバー、ホテル、待合室等、至るところで、白人と黒人は隔離されていた。『ミシシッピー・バーニング』(米国 1988年)は、米国南部のなかでもひときわ黒人差別が激しかったミシシッピー州における公民権運動活動家殺人事件を扱った映画だが、映画冒頭に、白人と黒人とで異なる冷水器を飲むという隔離を象徴するようなシーンがある。ふたつの冷水器の衛生状況は明らかであり、白人は清潔な水を飲み、黒人は不衛生な水を飲むことになっている。隔離とは、単純に距離を取ることではなく、黒人を劣位の地位にはめこんだ構造を維持することを目的としている。こうした黒人差別は、ジム・クロウ法と呼ばれるが、一八九六年のプレッシー対ファーガンソン裁判で、「分離すれども平等」との考えが示されることで、人種隔離は、合法とされた。

 

ジムクロウの時代は、一般的には1940年までとされる。以降、公民権運動の成果によって黒人の権利向上が大きく前進したのは間違いない。キング牧師やマルコムX、そしてローザ・パークスなどの数々の偉人が、この不条理な黒人差別に対して、それこそ命をかけて闘ってきた。1957年のリトルロック事件では、学校に通う黒人を守るために、連邦政府から軍隊が派遣されたし、ケネディ大統領は、投票権法(1965年)を定め、カーター大統領は38人の黒人を連邦裁判所の裁判官に任命した。もちろん、だからといって、米国で黒人へのレイシズムが一掃されたわけではない。カーター後のレーガン政権では、黒人はふたたび脅威であると煽られたし、ビル・クリントン大統領のコカイン取り締まり強化や三振法は、黒人の大量投獄へと帰結した。そして、白人警官による黒人殺害も後を絶たない。2020年ミネソタ州で、黒人男性ジョージ・フロイド氏が、白人警官に首の頸部を圧迫させられ死亡したことは記憶に新しい。この事件は、BLM運動の大きなきっかけになった。BLMとは、ブラック・ライブズ・マター(黒人の命も大切だ)という意味である。もちろん、肌の色に関係なく全ての人の命は大切だ。しかし、そのように言うのは、米国史において、黒人は「奴隷として、自由民として、二級市民として、下位カーストの一員として、『大切な命ではない』とされてきた」(299‐300頁)からである。レイシズムは、米国だけの問題ではない。程度の差はあっても、どこの国にもある問題である。もっと言うと、我々ひとりひとりの中にレイシズムは潜んでいるものである。その醜悪さにしっかり向き合い、平等な社会へ前進するためにも、アメリカ史から学ぶことは多い。