595冊目『歴史修正主義』(武井彩佳 中公新書) | 図書礼賛!

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ちょっと前に大学受験のための映画講義#5|與那覇開|noteを書いたとき、この本を参考にした。歴史修正主義の実態が分かって大変勉強になった。さて、以前にも書いたが、歴史修正主義とは、過去の事実に対する否定、ないしは隠蔽、矮小化する行為だとひとまず定義できる。とはいえ、この定義では歴史修正主義の特徴を説明し尽くしていない。というのも、過去の事実の否定や、改変がすぐさま歴史修正主義というわけではないからだ。たとえば、谷沢永一のように「聖徳太子はいなかった」と言ってみたり、「鎌倉幕府の成立は1192年ではなく、1185年が正しい」と主張することは、歴史修正主義とは普通言わない。通常、歴史修正主義言説として認められるのは、欧米では主にホロコーストを否定する言説、日本では南京大虐殺や従軍慰安婦を否定する言説に対して、歴史修正主義と言うことが多い。いったい、歴史修正主義とそうでないものの違いはどこにあるのだろうか。

 

その回答を端的に示せば、歴史修正主義は過去を道具にした政治運動だと言うことができる。聖徳太子や鎌倉幕府にはそのような政治性はない。ホロコースト否定にしても、従軍慰安婦にしても、歴史的事実である前に国際間を跨ぐ高度な政治問題でもある。そしてそこには必ず否定したい他者(囚人、慰安婦)がいる。そうした他者は自国の恥部の露呈させる存在である。だから抹殺しなければならない。こういう観点で見たとき、歴史修正主義とは、過去を扱いながらも、その運動は現在の関心に支えられている。そして、現在における歴史を「修正」することで、将来世代にも恩恵を与えることができる。したがって「歴史修正主義者は未来志向である」(16頁)。歴史によるアイデンティティは過去の記憶の共有によって、初めて可能となる。歴史修正主義者はこの記憶から負の過去を弾くことによって、未来世代に引き渡す純粋な物語を取り出そうとするのだ。

 

本書を読んで驚いたのは、あまりにも多くの研究者、文筆家がホロコーストを否定していることだ。しかも、ドイツだけでなく、イギリスやフランスなどにもホロコースト否定論者がいる。このことはホロコーストが実はヨーロッパ的な現象であったことを物語っている。フランスは、1940年にドイツに占領され、以降、ヴィシー政権のもとで対独協力を進めていったが、その過程でホロコーストにも加担している。フランスでも、ホロコーストを否定する歴史修正主義言説が後を絶たないのは、ドイツの犯罪に加担したという国家の恥部があるからだ。実は歴史修正主義はグローバルな規模で起こっているのである。こうした歴史修正主義の言説に対して、主にヨーロッパでは厳しい法規制が敷かれている。たとえばフランスのゲソ法では、ホロコーストを否定するだけでなく、「本当に600万も殺害されたのか」と疑問を呈するだけでも、刑事罰の対象である。しかし、これは言論の自由、学問の自由の侵害ではないのか。

 

ホロコースト否定言説を取り締まる刑罰の目的は、歴史の真実を守るためというよりも、民衆煽動を抑止するという治安維持的な観点が強い。歴史修正主義はただの事実認識による戦いなどではなく、実社会へ確実な脅威をもたらしてくる。敵を本質化する修正主義者の手法が大衆を煽動し、ヘイトスピーチやテロなどの犯罪にも繋がっている。『女は二度、決断する』(2017年)は、私がもっとも多くの人に見て欲しいドイツ映画のひとつだが、ネオナチによって外国人の夫と息子を奪われたドイツ人妻の悲哀を描いている。この映画のテロップによれば、ドイツの極右テロ組織NSUは外国人移民ばかりを狙ったテロ犯罪を繰り返し、2000年から2007年までのあいだに九名の移民と警官一人を殺害しているそうだ。ネオナチの犯罪は現在進行形なのである。ホロコースト否定言説を法規制の対象にすることは、否定論者を周縁化し、実社会で影響力をもたせないようにするために有効だ。しかしながら、厄介な問題がある。ゲソ法では現在、ホロコースト否定だけを対象にしているが、他の虐殺否定は法規制の対象にならないのだろうか。たとえば、南京大虐殺や、スレブレニツァの虐殺はどうなるのか。実際、アルメニア人虐殺を巡っては法規制の対象とするようにアルメニア人コミュニティからの運動がある。こうなってくると、法で守るべき記憶の選別をめぐって思想上の内戦が始まるのではないか。歴史の法規制はパンドラの箱を開けてしまった感がある。