257冊目『カラマーゾフの兄弟 2』(ドストエフスキー 亀山郁夫訳 光文社古典新訳文庫) | 図書礼賛!

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第二巻のあらすじ

アリョーシャは、尊敬するゾシマ長老の衰弱する姿を目の前に見つつも、ゾシマ長老から、一旦家族の元に戻るように諭され、父親フョードルのいる実家に帰る。妖艶グルーシェニカをめぐって父親フョードルと長男ドミートリ―は対立し、互いに憎悪し合っている。家族間の確執をなんとか解決したいと思うアリョーシャだったが、父親が息子たちを罵る言葉を聞いて愕然とする。父親の家を出たアリョーシャは、道の途中で子供たちの喧嘩に遭遇する。ひとりの子(イリューシャ)をよってたかっていじめている光景にアリョーシャはついつい容喙してしまう。助けにきたはずのアリョーシャだったが、なんとイリューシャに中指を噛みちぎらんばかりに噛まれ負傷する。ホフラコーワ夫人宅についたアリョーシャは、カテリーナとイワンが別れ話をしているところに遭遇した。カテリーナから二百ルーブルを受け取ったアリョーシャは、これを二等大尉スネギリョフに渡すように言われる。これは、ドミートリ―がいつの日か居酒屋でスネギリョフに辱めを与えたことに対する償い金という意味をもっていた。すぐさま、スネギリョフ宅に向かったアリョーシャだが、そこに指を噛んでアリョーシャを負傷させたイリューシャがスネギリョフの息子であることを知る。そして、スネギリョフは二百ルーブルを受け取ることを拒否した。ドミートリ―を探しに出たアリョーシャだったが、父親の家の隣家でギターを抱えたスメルジャコフに偶然、出会う。スメルジャコフから兄二人が食事しているとの情報を聞いたアリョーシャは、急いでレストラン「都」に赴き、そこにいたイワンと会う。イワンは「大審問官」などという自分の物語詩をアリョーシャに語って聞かせながら、自身のモスクワ行きを宣言する。イワンと別れ修道院に戻ったアリョーシャは、ゾシマ長老の人生の顛末を聞き、衝撃を受ける。
こうやって概略を書いてみると、思ったより事態は遅々として進んでいないことがわかる。『カラマーゾフの兄弟』のあらすじを要約するのは容易ではないが、思い切って簡単に述べてしまうと、「父親フョードルの殺人とその犯人探し」といったところだろう。しかしながら、第二巻においてもその主題となる殺人は行われない。『カラマーゾフの兄弟』は、様々な挿話を取り込みながら外堀から周到に着実に物語の核心部分へと迫っていく長編である。第二巻の読みどころは、「スネギリョフの振舞いの謎」と「大審問官」と「ゾシマ長老の生い立ち」である。いずれも小説の主題からすると挿話的位置づけだが、こうした小説内小説、テクスト内テクストが『カラマーゾフの兄弟』の魅力である。

スネギリョフの振舞いの謎

長男ドミートリ―が居酒屋で酔った勢いで二等大尉スネギリョフのあごひげを引っ掴み、屋外に連れ出して辱めを受けさせたという、どうしようもないことをしでかす。その事情をきいたカテリーナは、二百ルーブルをアリョーシャにもたせて、見舞金としてスネギリョフに渡すようにお願いする。アリョーシャは言われた通り、スネギリョフの自宅へ向かう。このスネギリョフという人物もなかなかサイコな人間であり、話す内容が常人の枠をはみ出ているが、結論から言うと、スネギリョフは二百ルーブルの受け取りを拒否する。しかも、それもただの拒否ではない。

そして、いきなり右足を上げると、荒々しい憎しみをこめて踵を紙幣に叩きつけ、一足叩きつけるごとにはあはあ息を切らし、声をあげた。「こんなお金、こうしてやる! こうしてやる! こうしてやる! こうしてやる!」それから彼は急に後ろに飛びのき、アリョーシャの前ですくっと背筋をのばしてみせた。(略)「あなたを使いに寄こした方にお伝えくださいませ。あかすりは自分の名誉を売ったりしませんとね!」右手を宙にさしのべながら彼は叫んだ。それからくるりと背中を向けると、一目散に走り出した。(149頁)

この場面の少し前、「わたくしにこんな大金を、二百ルーブルのお金を!」(141頁)とスネギリョフが述べているあたり、実はスネギリョフが二百ルーブルを喉から手が出るほど欲しかったということは想像に難くない。それでも、なぜスネギリョフはこうまで激烈に二百ルーブルの受け取りを拒否するのか。もしドミートリ―本人が謝罪とともに見舞金を渡したのなら納得して受け取っていたのだろうか。しかし、あくまで作品テクストに忠実に考えるかぎり、スネギリョフのセリフにドミートリ―本人の謝罪を要求する文言はない。
やや話は変わるが、バフチンによる有名なドストエフスキー評論である『ドストエフスキーの詩学の諸問題』で、バフチンは、この小説の特徴として、ポリフォニー構造を挙げていた。ポリフォニーとは、直訳すれば「多声」である。これは、父親フョードルの暗殺後、アリョーシャとスメルジャコフがイワンに対していった同じセリフ「あなたじゃないんです」が、その内実は正反対を意味することを捉えたバフチンによる画期的論考だが、そのことを踏まえて評論家の山城むつみは、「異和」を導き出している。このポリフォニー概念ついては、次回あたり山城氏の著作を論ずる際に触れるが、ここでは、山城氏が提起している問題を整理しておきたい。たとえば、山城氏はこんなことをいう。「私はバカだ」と自分で述べる人がいるが、そういう人に実際に「お前はバカだ」と言ってみると、当人は不快感を感じるはずである、と。たとえ謙遜ではなく心底「私はバカだ」と思っていても、相手から「お前はバカだ」と言われるとやはり不愉快になるだろう、と。つまり、「意味(内容)も言い方(形式)も全く同じであってさえ、その言葉を発するのが自分の口なのか他人の口なのかによって全く別の価値を持ってしまう」(山城むつみ『ドストエフスキー』講談社、22頁)。山城氏は、これは、一体なぜなのかと問うている。
人は、自分が思っていることでも他人に先取りされたときに、同意というよりも異和の方を表明したい性質があるのだろうか。山城氏のこの言語の謎への問いは、先ほどのスネギリョフの不思議な態度を考えるにあたって格好のヒントになる。つまり、スネギリョフは、自身の辱めを受けた見舞金を欲しているのだが、その真意をアリョーシャに先行的に表わされたことに大そう腹を立てたのである。そう読むとスネギリョフの激昂もむべなるかな、という気がしてくる。先ほど述べたように、ここには、自分の真意が相手の言葉によって表現された場合、同意・共感という感情よりも、自分の心を透かし見られているという恐れの感覚のようなものが表出されているのかもしれない。
自分の思いが他者の先取りされるというのは、アイデンティティの崩壊と結びつく。アイデンティティとは、自分だけの名前や顔をもっていることだけは成立せず、自分だけにしか知りえない秘私的な情報をどれだけ持っているかによって担保されるのだろう。もしそうだとすれば、スネギリョフのあの苛立ちは、自分自身のアイデンティティを全霊をもって守り抜かんとする急迫した意思が読み取れるだろう。『カラマーゾフの兄弟』は、その複雑な人間模様が織りなす心理描写が抜群の評価を受けているが、こうした感情の機微が大きく作用しているのかもしれない。

大審問官

『カラマーゾフの兄弟』といったら、なんといっても「大審問官」みたいになっているが、私はそれほど感心はしなかった。もちろん、面白いことには面白い。ただ手放しで絶賛するほど深く感動を覚えたわけではない。「大審問官」は、これはイワンの創作した物語詩であり、典型的な小説内小説である。この挿話的小説の中で、神をめぐるさまざま考えが披歴されているわけだが、やはり、これはキリスト教の文化圏にいる者でないと、深く理解するということまでは及ばないのではないかと思った。ただ面白いと思ったのは、ロシア人のドストエフスキー研究者パーヴェル・フォーキンが、イワンが大審問をゾシマ長老に見立て、聴き手のアリョーシャを挑発している、というのは目から鱗だった(『カラマーゾフの兄弟』の思想構造における「大審問官」『現代思想 総特集ドストエフスキー』)。大審問=ゾシマ長老という見立てが定説なのかよく分からないが、この視点でこの物語詩を考えてみるのは面白いと思う。

ゾシマ長老の生い立ち

第二巻の最後では、アリョーシャがまとめたという断りがついた上で、ゾシマ長老の生い立ちが語られる。第二巻の読みどころは圧倒的にこの箇所だ。まず始めにゾシマ長老の兄の話が語られる。ゾシマは二人兄弟であったが、兄のマルケルは一七歳で病で死んでしまう。マルケルは無神論者を貫いていたが、自分が病気になってから神の啓示を受けたように敬虔深い人になった。このことがゾシマ長老の心に深く残った。兄の死後、ゾシマはペテルブルグの陸軍幼年学校に通うことになった。そこでは喧嘩や決闘が絶えない粗暴な日々を送っており、そのような横暴さが自慢の種にすらなっていた。ゾシマは自分の愛した女の婚約者の男に決闘を申し込むが、その前日、自分の召使アファナーシーを殴りつけた。どうもこの一件は、横暴なゾシマ長老自身でさえ自己のうちに反省を強いるものがあり、わずか一日にして自分自身の罪深さに向き合い、修道院行きを決心する。そんなゾシマ長老のもとに謎の訪問客が現れる。この訪問客はゾシマの敬虔深い姿勢に感銘を受けてゾシマを訪問したのだったが、自分の心には深い闇を抱えていた。彼は、ゾシマにこう告白する。「わたしは...じつは…その...人を殺したことがあるんです」(412頁)。彼には愛する未亡人がいたが、その未亡人には振り向いてもらえなかった。その結果、彼は夜中に未亡人の家に侵入し、眠っている未亡人の胸に短剣を突き刺す。幸運なことに別の人間が冤罪として逮捕され、彼に罪状が下りることはなかった。それから一四年が経過し、彼には妻子をもつようになったが、彼の心には人を殺したという罪の意識が頭から去ることはなかった。ここで彼の胸のうちを吐露する場面を確認しておこう。

《どうしてこのおれに、子どもたちを愛したり、しつけたり、教育することができるだろう。どうやって子どもたちに善行について話せるだろう。そもそも自分が他人の血を流しているというのに》(419頁)

この場面は非常に重要である。彼は結果的にこの罪の意識を浄化するために世間に向けて真犯人は自分であることを公言するのだが、そこに至る心理的葛藤に我々は道徳とは何かという本質的な問題を見ることになるだろう。道徳が「外」にあるのか、「内」にあるのかというのは古来から議論されてきた。つまり、道徳というのは、先人たち積み上げてきた知の体系に宿っており、しっかりそれを読書や講義なりを通じて学ばなくてならないという考えが、道徳「外」派である。翻って、道徳感情は人間なら誰でも持っているものであり、地位とか名誉とかそういった俗世のしがらみから解放されれば誰でも自分の力で道徳に辿りつけるはずであるというのが道徳「内」派である。ユダヤ人の女性政治哲学者ハンナ・アレントは、道徳というのは個人の内面にあるものだと説いた。「宗教的な掟といえども、自己を究極の基準としなければ、普遍的な道徳の掟を定めることができないという事実に思いをめぐらせていただきたいと思います」(ハンナ・アレント『責任と判断』ちくま学芸文庫、113頁)。結局のところ、自らの振舞いが、善なのか悪なのかは自己を基準として考えるほかない。語源的にも、自己と関連づけて当の問題を「意識」(conscious)することで、「良心」(conscience)が現れるのだ。『カラマーゾフの兄弟』第二巻における終盤のゾシマ長老の一代記は、まさにそうした道徳の始原に出会う場として読まれなくてはならない。