間抜けな、腐り果てたゴミななかで、間抜けな腐ったデカルトの間抜けの豚と、女と言う間抜けな腐ったものがやまないこのなかで、本当に醜いもののなかで、しかしアイドルは死んでも不自由を譲らない、というのが俺の理解。俺はアイドルに求めてはいない。わからないが。俺はアイドルを比較や関係の中に位置付けていない。つまりこういう風に、で伝わるかわからないが、アイドルとかいってるとき頭の中に他のものはない。すがってるとかいう風に言えるかもしれない。俺が描いたところのもののなにか。この醜すぎる間抜けのやまない中で、死んでも道理を譲らないというのがアイドルであるに違いないと俺は思う。間抜けがやまないなかで、間抜けな腐ったゴミがおさまらないなかで、関係に則してある道理に則し、人に向かわず、国境と形式に至るのが、アイドルであると、俺の理解はそうなってる。汚物であることを死んでも拒むことになるのがアイドルだと、俺はそう認識してる。
デカルト豚は、間抜けで脳みそが腐ってるから、言葉が通じない。言葉の通じない間抜けなゴミがやまないなかで、アイドルには言葉が通じる。アイドルはだから不自由を譲らない。アイドルにとって非道理であること、不自由でないことは、国境と形式に至っていないことは、それは耐えられる何かではない。アイドルは間抜けな恥知らずな非道理な醜いゴミであるようなことはできない。そういうのには耐えられない。アイドルは不自由を死んでも譲らない。とにかく俺は言葉が通じて欲しい。非道理に与しないでほしい。間抜けが譲られないから、言葉が通じない。デカルト加害豚は、間抜けの極まった、腐り尽くした醜いゴミであり、本当に酷いものだが、間抜けが死んでも譲られず、死んでも言葉が通じない。醜いものに連ならないでほしい。以下のものは、道理としてはそれぞれきっと関係がある。ある意味では二つ目になると思う。俺は女の頭が腐ったものでないことを望む。不自由になれる人であることを望む。それはつまり間抜けでない、関係、則してある道理が認識される人であることを望む。例によって俺は自分が書いてるか把握できているとは言いがたいところがある。何を言いたいのか言わんとしてるのかもわからないところがある。だがおそらく、間抜けがやまないのだと、そういうのが少しでも僅かにでも微妙にでも把握されたのなら、言葉はいくらか通じたのだろうと思う。間が抜かされていると、これが少しでも把握されたのなら、言葉はいくらか通じたのだろうと思う。またそして、そういうようなことが書けたということになるのだと思う。十分な推敲はなされてない。言わんとすること自体がよくわからないのだから、それに着手し、十分になるというのは考えがたいことだと思う。
(一部省略)
多様性と言う言葉は、高いとか低いとか、大きいとか小さいとかと同じで、単独で意味の成り立ってる言葉じゃありません。後輩は遅刻魔、先輩はお局で、上司は家庭のいざこざでメンタルがやられてる、そんな職場はバラエティーに満ちてますが、力にはなりません。膝では半月板が薄くなり、腰にはヘルニア、高血圧で虫歯で鼻炎に近眼、力にはなりません。ベンチに盗塁の上手な俊足の若手、巧打のベテラン、俊足強肩の中堅、これは力になるでしょう。左翼の言う多様性は、力にならないし、むしろ壊します。でも左翼はデカルト豚です。医療崩壊がと言います、消費税の減税には混乱が云々といいます、移民、混乱はまぬかれず、崩壊もあり得ますが、これには多文化共生と言うわけです。そして差別だの偏見だのなんだのと言うわけです。見た目も文化言葉も帰属愛着も異なる、噛み合わないのが普通です。人々の頭には関心のないことは何も入ってなくて、それこそがまさに答えになりますが、だからこれすら目に入らないし、思考すらされない。色々とにかく、脳みその腐ったゴミであることが譲られない。こんな間抜けで醜い話はない。そして左翼は滅裂な思考と言行に及ぶ。こんな酷い話はない。女の醜さと左翼の醜さには通じるものがある。間抜けで非道理で腐ったもの。現実に女は真実に紛れもなく醜い、かつまたは間が抜けている。アイドルは関係に則してある道理に則し、人に向かわず、国境と形式に至る、国境と形式において、また持ち場、あり方も揺るぎない、アイドルは道理を譲らない、アイドルは不自由を譲らない。左翼にとって人々の頭と心を支配するのは当たり前のこと。左翼は個人で権利で自由で多様といい、そしてその頭の中で人々がどう考えどう感じどうするべきかも決まっている、そして裁き、観察把握、啓蒙支配、これを繰り返す。左翼は脳みそが腐っているのでこういうことがなされる。間抜けな腐ったデカルト加害豚なのでこういうことが起こる。頭の外、関係、道理に躓かれない。アイドルは生理を逸し、権利、裁き、普遍をまとめて逸し、関係に躓き、道理に転び、国境と形式に至る。女が汚物であることを忌めない限り何もかもどうにもならないし、女がそんなものであるという現実は、本当に醜くて、本当に酷いもの。それが忌まれないのは、本当に狂ったこと。
自由市民社会自体が性同一性障害的なもので、だから滅裂がやまない。めちゃくちゃがとまらない。手がかり、余地がない。頭の外、関係、道理に躓かれない。左翼は壊れていて、壊れていながらに全てを壊そうとする。
自由市場の人と自由市民社会の人に違いはない。経済人と左翼に違いはない。左翼は能力といい、権利がといい、差別がという。左翼は何かを非難するが何かは非難せず何かには反応しない。左翼は醜く腐った間抜けなデカルト加害豚。左翼は自由といって支配し、多様といって揃えることに向かう。権利といって抑圧し、個人といって統制する。左翼は間抜けがおさまらない。左翼は支配に向かう。左翼が弾圧し、左翼が否定し、左翼が加害し、左翼が肯定し、左翼が破壊し、左翼が宣言し、左翼が規定し、左翼が観察し、左翼が裁き、左翼が支配する。左翼は躓けないか躓かない。左翼はデカルト加害豚で、デカルト型というかな自然主義の、デカルト型の理気(というか理非)二元姿勢の、デカルト加害に向かう間抜けな醜く腐った豚。自由思想はさまざまに否定非難加害破壊するが、あはんうふんぴえんきゅるんを止めない。精神、知性、意思そのものを籠絡するから、自由思想の琴線には触れない。あはんうふんぴえんきゅるんを止めるのは道理だが、これら自由思想の豚には既に忌まれ逸されている。自由思想の豚は、没関係個人、理性、意思、自由、権利、精神、知性、能力、差別がとうの、合意、契約、こういうのを展開したがる。これはさまざまに否定非難加害破壊するが、デカルト型自然主義、デカルト型理気(というより理非)二元姿勢とでも言えるようなものだと言えるが、これはあはんうふんぴえんきゅるんを止めない。自由思想の間抜けさは明らかだが、左翼は豚であることをやめない。間抜けから入ることを譲らない。左翼はデカルト加害を譲らない。左翼は全てを支配し、全てを加害したい。左翼は醜く腐った間抜けなゴミクズであるところの醜く腐った間抜けなデカルト加害豚。左翼の根本は左翼が加害をするということ。左翼の加害熱中には際限がない。意思を尊重などと言うのは欺瞞の滅裂だが欺瞞と言うより間抜けなために滅裂が認識されないのかもしれない。個人というのは左翼の監視し裁き支配するための起点。個人の権利とか個人の意思とかいうのは左翼の監視し裁き支配するための起点。自由と支配は同じもの。左翼は自分が間抜けな支配者であることを譲らない。左翼は間抜けな腐ったゴミであることを譲らない。左翼は自分が全てを加害する存在であることを譲らない。左翼は間抜けな腐ったクズ。女は、男によるNot so badは男の勝手で無義務、男からのunwelcomeは男の勝手で被害、糾弾、裁き、賠償、男が死のうが男の勝手、男に没関係に還元して無関係、その上あはんうふんぴえんきゅるんは止まらない。そしてこれは精神知性意思を籠絡するから男の勝手。殴る蹴る脅すはダメで、セクハラとかパワハラとか色々言われ、差別だとか何だとか言われ、腕力はダメで、丸太のような上腕二頭筋と何が違うのか、知力だの能力だのは唱われる。また精神への要求もやまない。そしてあはんうふゆぴえんきゅるん、他のすべてもそうだが、道理だけが不自由にするが、道理は左翼に蹴散らされてる。自由思想が道理を阻むから形は納められない。市民社会は生理に則して関係道理を逸した理性の作り上げたものだが、腕力支配を野蛮と見ても知性精神支配は野蛮と見ない、そしてあはんうふんぴえんきゅるんにはもとから対応してない。それをおさえるのは関係道理なのである。女は躓かない、左翼は躓かない。道理は逸され、生理は狂い、全ては壊れ、混沌、滅裂、消失、崩壊を結果とする。頭の回る女、それは男からの不適切なトリクルダウンだが(ヒュパティア、アルベルティーヌ、スタール夫人、上野)、これは(挙げた人については、ヒュパティアやスタール夫人については知らない)我意我欲を逞しくし、不平不満を膨らませ、女が不遇であったという逆さまの認識を納め、不当な男叩きや社会の破壊に向かう。だいたい幹部格の女性主義というのは逆型の性同一性障害だと言える。つまり自認は女だが冷酷で攻撃的で支配的でまた権力志向だったりなど、中身が糞みたいな、あるいは左翼的ななどとも言えるかもしれないが、男なのだから、要するにイカれた捻れ男女(おとこおんな)が醜さの限りを尽くそうとして醜悪な思考言行に及んでいるのがこいつらだと言える。で、そのような認識を納めそのような破壊などに向かうと言うのは、こんな酷い話はない。道理に則すことができない。頭は回っても、道理に則しては回らない。
左翼は、見た限り、「右翼は頭が悪い」「左翼は論理的だが右翼は感情的」「右翼は恐怖心が強い」という。これから考えるに、左翼は、頭が回り、論理的で、感情が欠如していて、恐怖心が欠落している、ということになる。これは極端にはサイコパスのようなものだと言える。なかには悪辣な醜く腐ったサイコ左翼もいるだろうし、そういうのはないが色々欠如した人権系サイコ左翼もいると思う。そして、このようなのはある種の男である。サイコ男の反対側にいるのは明らかに女だろう。位置付けられるとして、位置付けるならば、右翼は左翼と女の間に位置することになるかもしれない。位置付けられるとして、そうであるとして、それはいずれかの端がよりよいものなのか、それとも、真ん中辺りに塩梅のあるものなのか。つまり、左翼はバランスを保ったものなのか、それとも、欠いたものなのか。あるいは、むしろ組み合わせ的なものだろうが、全体としてどうであるのが、どうなのか。
左翼は理性に恃んで関係道理を逸して普遍に向かう。俗な場合というかには普遍的な自分たちみたいな風に集まりもする。生理に則して関係道理を逸しながら生理に則して集まるということをしている。また関係的、社会的に、国連とかに向かったりする。左翼はローカルなものを尊ぶような姿勢を見せながら国連に向かったりする。左翼にはこういう滅裂がある。
普遍の正義、あるべきあり方とか、二酸化炭素とか、普遍の絶対みたいなものや、客観とは何かというのが自分にはあるがそれはともかく、客観や自然の絶対みたいなものとか、かつ、女と言う男が女子競技で女子風呂で女子トイレで女学校、また女子刑務所みたいな、これは言わば主観絶対みたいなことになっているのであり、ここに通じるのは、結局没関係ということになる。開明の蒙昧のなかに、間抜けであるために、いることになる。頭の外、関係、道理に躓かれない。
左翼に見えず、そして女にも見えないものが国境だろう。左翼、男女問わずある種の片寄った男の極み、女、女、これが野放図に暴れてやまない。豚の限りを尽くしておさまることがない。関係に則してある道理に則して至る国境と形式、左翼にも女にもわからないか、無視されたりする。認識されず至られないのか、認識されても至られないのか。非道理は酷い話。
道理に則したら、個人、理性、意思、権利、自由、精神、知性、能力、差別がどうの、あはん、うふん、ぴえん、きゅるん、これらも、そのような考え、観念に至らなかったり、不自由になったりもするだろう。国境と形式に至る。
人は関係に則してあり、関係に則して道理がある。道理に則して国境と形式に至る。人に向かわず、国境と形式に至る。国境と形式は既に生者会話政治を殺している。
間抜けと言うものについて何かが伝わったのならありがたいというか、何か伝わりうるんだと俺は認識すると思う、というかなんというか、という感じになると思う。