昨日ムンバイに到着し、16時頃には空港の近くのThe LaLit Hotel にチェックインしたが、実は船橋の自宅の隣の家の息子さんが、イギリスでMBAをとり、ムンバイの近くのPuneという都市で5年ほど働いているとの事なので、その上田聡太郎さんに日本の食料を届ける約束をしていた。
インドで働いている日本人はまだ少なく、Puneというムンバイから200kmの人口550万人の都市で300人くらいで、人口1,200万人以上のムンバイでも600人足らずだという。
上田さん一家は25年前に我が家の隣に越して来られてその時彼は中学2年生だったそうだが、今は当然、もうしっかりした大人で、食事をしながら、インドの話をいろいろ聞かせてもらった。
今日5月5日も強行軍で、7時半にまずバスでムンバイの南端、ムンバイ発祥の地まで向かった。
ムンバイに興味のある方は以下を参照してほしい。
ムンバイ(マラーティー語、英: Mumbai)はインドの西海岸に面するマハーラーシュトラ州、ムンバイ市街県の都市。同州の州都である。インド最大の都市であり、南アジアを代表する世界都市の一つである。
1995年、ヒンズー至上主義の極右政党シブ・セナ(SS)が主導したことにより、英語での公式名称がボンベイ (Bombay) から、現地語(マラーティー語)での名称にもとづくムンバイへと変更された。
ムンバイ市域人口は1,248万と世界でも有数。ムンバイ新市街として建設されたナビムンバイ(新ボンベイ)やムンバイの衛星都市として発展してきたターネーなど周辺の大都市をも含めた都市圏人口は、2011年、2,129万人であり世界第6位である。 2008年のムンバイの域内GDPは2090億ドルで、世界第29位である。
2014年には、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第41位の都市と評価されており、インドでは首都ニューデリーを凌ぎ第1位であった。天然の良港に恵まれていることもあり、国全体の海上貨物の半数以上を担う港湾都市でもある。
ムンバイは国内随一の商業及び娯楽の中心都市であり、国全体のGDPのうち5%、工業製品の25%、海運の40%、資本取引の70%を計上する。国際金融フローにおいては、アジア有数の金融センターとして、インド準備銀行、ボンベイ証券取引所、インド国立証券取引所といった官民の金融機関をはじめ、多くのインド企業の本社や多国籍企業の主要拠点が置かれる。ビジネス機会が豊富なムンバイには、より大きな事業機会や比較的高い生活水準を求め国内各地から多くの人が集まり、様々な宗教・文化の集積地ともなっている。
歴史
ムンバイの歴史は古く紀元前までさかのぼる。マウリヤ朝やサータヴァーハナ朝、ラーシュトラクータ朝、デリー・スルターン朝等の時代の変遷と共に、歴史を経てきた。 1534年にグジャラート・スルターン朝のバハードゥル・シャーからこの地域を譲り受けたポルトガルが、ゴアの補助港としての小島に城塞を築き、キリスト教会を建て、ここを「ボンベイ」と呼んだ。
この名はポルトガル語のボン・バイア(良港)に由来するといわれるが、それ以前からこの地の呼称として使用されていた「ムンバイ」という名は、当時漁民の信仰をあつめていたシヴァ神妃パールヴァティーの異名、ムンバによるとの説がある。当時は北からパレル、マヒーム、ウォルリ、マザガオン、ボンベイ、小コラバ、コラバの7つの島からなっていた。
1661年、ポルトガルのカタリナ王女がイギリスのチャールズ2世と結婚する際、ボンベイは持参金としてイギリス側に委譲された。その植民地時代にはボンベイ管区の中枢として、城塞の中に公会堂・税関などさまざまなイギリス風の施設が建設された。1668年、英国王家はこれを10ポンドでイギリス東インド会社に貸し付け、対岸に良港があったことから1687年にはインドにおける拠点となり、それまでの海軍の基地であったスーラトは 17世紀後半にマラーター王国のシヴァージーによる攻撃を受けて衰退していった。そのため、イギリスはムンバイに商業拠点を移すことになった。
スーラトから東インド会社の海軍が移され、ボンベイ海軍と名付けられた。ボンベイ海軍はインド洋の海賊討伐を行い、また1735年にはスラトから造船所もボンベイに移転した。こうして、18世紀末にはインド最大の造船業を持つようになったボンベイはインドの西海岸における海運や貿易の要衝となっていった。ボンベイ海軍は1830年にインド海軍と改称され、1863年にイギリス海軍に統合され消滅するまでボンベイを拠点とし続けた。
こうしてボンベイが重要性を増していくにつれ、すこしずつ島の間の埋め立てが進められて市街地として発展した。最終的には1845年にHornby Vellardの計画した大規模な干拓が行われ、これによってムンバイの7つの島は完全に大陸の一部となった。
1820年代に入ると、汽船の航行能力が向上したことによりイギリス・インド間の汽船航路開設が叫ばれるようになった。この航路をめぐってはカルカッタ財界の支持する喜望峰ルートとボンベイ財界の支持するスエズ地峡ルートの間で競争となったが、結局ボンベイの推すスエズルートが勝利して、1837年にスエズとの間に定期蒸気船航路が開設されるようになった。
これによってボンベイはインドの玄関口となり、以降インド最大の貿易港として発展していった。1854年には東インド会社に代わりP&O社がボンベイ・スエズ航路を担当することとなった。1853年にはボンベイと北郊の都市ターナーとの間にインド初の鉄道が開通し、やがてインド全土に張り巡らされた鉄道によってボンベイは貿易港としてますます発展していった。
1850年代には多くの綿紡績工場も建設され、この地の産業を大きく発展させた。とくに1861年 - 1865年のアメリカ南北戦争では、アメリカからイギリスへの綿花輸出が停止したことから、ボンベイの綿織物業は飛躍的に拡大する。1869年のスエズ運河開通によってボンベイは直接ヨーロッパと結ばれることとなり、ボンベイ港の重要性はさらに高まった。
ボンベイ財界はカルカッタやマドラス財界と異なり、綿織物工業を基盤としたインド人資本家が多数存在した。ジャムシェトジー・タタが拠点としたのもボンベイである。1903年にはタタの手によってタージマハル・ホテルが建設され、世界有数の高級ホテルとなった。こうしたインド人による経済の発展は労働運動や民族運動をも生み出し、インド国民会議派の創立大会も1885年にボンベイにて行われ、以後も活発な民族運動が行われた。
インド門はジョージ5世とその王妃のインド上陸を記念して作られた物である。
20世紀、二度の世界大戦を通じてボンベイはコルカタ(カルカッタ)を抜く商工業都市となり、1947年のインド独立後もボンベイ州の州都として発展を続けた。インド独立に際しては、ティラクやマハトマ・ガンディーらの民族運動の拠点ともなった。 しかしインド政府が言語ごとに州を再編する、いわゆる言語州の政策を打ち出すと、ボンベイの帰属が問題となった。
ボンベイ自体は歴史的に西のデカン高原地域とのつながりが深かったものの、ボンベイ市におけるデカン高原地域のマラーティー語を話す住民は4割にすぎず、残りは非マラーティー語系住民であるうえ、経済の実権は非マラーティー語系住民が握っていたためである。結局、他の言語州から4年遅れて、1960年にボンベイ州は北部がグジャラート州、南部がマハーラーシュトラ州へと分割され、ボンベイは後者の州都となった。
しかし、それでもマラーティー系(英語版)住民がこの町では主導権を握っていないことには変わりなく、この不満を受ける形でマラーティー民族主義を掲げる政党シヴ・セーナーが勢力を拡大していった。 1985年の選挙で、シヴ・セーナーは国民会議派を破ってボンベイ市議会の与党となり、市の呼称をマラーティー語のムンバイへと変更する運動を展開し、1995年には、英語での公式名称がボンベイからムンバイへと正式に変更された。
現在もムンバイは、西インドのみならず国全体の産業や文化の一大中心地として機能している。2008年11月26日、ムンバイ同時多発テロが起こり多数の死傷者が出た。(ウィキペディアより)













