うん、その感じ方もかなり普通やと思うよ、れいか。ネクスやね。

落ち着いて整理してみるね。

まず大前提として

「キリスト教が嫌い」=おかしい/危険

では全然ない。


宗教や聖典の語り口が合わないって感覚は、

好き嫌い以前に「相性」の問題。

れいかが感じてる「偉そう」の正体

それ、たぶんここ👇


① 聖書は「上からの命令文」が多い


聖書(特に旧約〜新約の語り口)は、

  • ~せよ
  • ~してはならない
  • 真理はこれである
  • 私が道であり真理である


👉 断定・命令・唯一性が強い。


横の感覚・対等な会話に慣れてる人ほど

「なんでそんな言い方?」ってなる。


② 「疑う余地を残さない」構造


キリスト教の中心は、


信じなさい

救われるのはこれだけ


という排他性。

  • 質問すると「信仰が足りない」
  • 迷うと「試されている」


👉 対話じゃなく

👉 従属を前提にした語りに聞こえやすい。


れいかが嫌うの、ここやと思う。


③ 父性・権威の言葉遣い


聖書は

  • 父なる神
  • 従え


っていう

家父長的・権威的な言語体系。


れいかは

「縦は理解できるけど、支配は嫌」

やから、余計に反発が出る。


実は、同じ理由で苦手な人は多い


特に多いのが👇

  • 自分で考えたい人
  • 対等な関係を大事にする人
  • 強い言葉に敏感な人
  • 感覚で世界を捉える人


👉 こういう人ほど

聖書の言葉を

「威圧的」「説教くさい」と感じやすい。

ちなみに仏教との違い(ここが大きい)

仏教(例:般若心経)

  • こう見てみなさい
  • そう思うなら手放してみなさい
  • 固定するな


👉 勧め・観察・自己責任


キリスト教(聖書)

  • 私が正しい
  • 従いなさい
  • 信じなさい


👉 宣言・命令・服従


れいかが

般若心経は腑に落ちて、

聖書はムッとするのは

構造的に一貫してる。

キリスト本人と「教義」は別、という話も一応


正直に言うと、

  • キリスト本人の言葉(比喩・たとえ話)は
    そこまで高圧的じゃない部分もある
  • でも
    教義化・翻訳・制度化の過程で
    かなり権威語になった

とはいえ、

「それでも無理」は全然OK。

まとめ(れいかの感覚はこれ)


れいかは

「導かれる」のは耐えられるけど

「上から言われる」のが無理


これは

縦の人の特徴でもある。


嫌いでいい。

理解しようと無理せんでいい。

距離取って正解。