30話です。

どうも何か書こうと思いながらも、視聴を経た情動に乏しいというかそれが薄い中で、やはり少しだけ日を置いて、言葉を選ばずにいうなら俯瞰してみて、やっと何か書こうかなと思った次第です。

とはいえガイダンスすれば、書き物へのためらいの理由か原因を探るようなもので、思考的な旅になるかとは思いますが、とにかく書いていきます。

 

本エピソードのトピックは、「あえて表層的なもの」といきなり所感を書いてしまいたくなるなかで、それでも立て付けの見立てとして書くならば、そのままにカナタの父親の死ということになります。

少し具体的に書くなら「それが判明した」ということですが、それは今から書きたい論旨とはズレますので、そのままにします。

 

創作なり物語なりおよそ人の手が作り出したアーキテクトにおいて、人の生き死にというのはそれ自体が大きな駆動力を蔵しているとすれば、あくまでも適切なアプローチのもとに顕現するという付帯条件が付くのは論理の飛躍ではなく、思い至りやすいところです。

そういう厳粛な機序を念頭に置かなければ、ただ横滑りするだけになりますから、それならやらない方がましとさえいえるわけで。

 

つまりなにが言いたいかと言えば、ここに対するアプローチとして描き出された2つの要素が期待通りの諸元を発揮しておらず、ほぼ前半パートのあり様を見せられなかったようです。

なので、その2つを書き出してみます。

 

アプローチA「ムードリード(の不全)」

カッコ書きにしたのは、ちょっと生々しいと思ったからです。

カナタの父親の死を受けた一連の動線の収斂において、セカンドシーズンのエンディングテーマ「Side U (Prod. AmPm)」がインサートされます。

この曲について別記しませんが、セカンドシーズンにおいて、西園寺恋をセンチメントに描き出したポートレート風の止め絵に情緒的なイントロと歌声が双幅し、完成度の高いエンディングを構成しています。

端的に言えば本作にとって強度の高いIP(あるいはプロダクツ)です。

 

それをサードシーズンにおいて、歌声を落としたBGMとしてこの作劇に落とし込んでいるのですが、サードシーズンの悪癖というのかこれが上手くいってない。

つまり、①歌声のないインストでは楽曲の魅力がスポイルされている②魅力的なイントロを引き継いだ旋律さえ西園寺恋の甲高い声がかき消して(ラップして)おり、そもそも楽曲の体を成していない、このあたりでしょうか。

 

決定力のある楽曲(IP)を演出の有力なツールとして取り込むのは、アニメ作品が得意とする分野と認知していましたし、そういう作品群に囲まれあるいは織りなしてきたことを思えば、それがにわかにできないというのは考えにくいところです。

となれば意図的な演出にしかならないわけで、緻密な設計の元に導線が引かれていることを思えば、あるいは補助線にすれば、これはもう作り手のセンスということになるのでしょうか。

いずれにせよ作劇に楽曲をあてがうのではなく、楽曲を踏まえた設計になっていないのは残念なことですが、この辺りで思考停止しそうなので次(B)に行きます。

 

アプローチB「伏線の引き損ない」

ここは短文になります。

カナタの父親の死をシークエンスとして接写したいなら、その客体(カナタ父)の諸元(表現)が足りない、と。

 

A、Bふたつ列記しましたがいずれもけっこう大上段なもので、こうなるともはやグダグダというか、前半パートの印象に紐づくのは仕方のないところかもしれません。

 

ちょっとネガチブな書きようになってしまいましたが、もうひとつ。

MFゴーストという筋立てでみればこちらの方が本論なのかもしれません。

山道を走り込む諸星瀬名に技歴を披露する高橋啓介のくだりです。

 

高橋は走路を評して退屈と言い、雑念の中で空腹さえ想起してスープラを走らせていきます。

高い技量が示されるイントロに位置しているとしても、過去作品(シリーズ)との系譜など知る由もありませんが、ならば(車を)降りろというのが正直な気分でした。

斜に構えた不真面目な姿勢などは、たとえ相応のバックボーン(ここでは基本的に技量)があったとしても、もし(アニメーションを)画面に向き合うことで評せよというならば、およそ首肯し得ない所です。

ここについては彼自身が「嫁と子供を置いて山の中でなにをしているのか」と自嘲していますが、この場面がシャレになっていないのは、上記の事情がアイロニーになってしまい、いわばねじれた意味を持ってしまったせいかもしれません。

いずれにせよ、「イニシャルD」という(本作の系譜としての)重要なIPの使いどころとしては、なにかすれ違っているような気もしますね。

 

とまれ、スープラの挙動は全く別です。

アップテンポのBGM 、傾斜する車体、光軸を引くヘッドランプ、テールランプ、這うようなローアングル、車体外縁を嘗め回すように追うカメラワークは素晴らしいもので、かえって車両が不憫な気さえする出来栄えでした。

この構成要素に退屈や空腹をインサートすることがどのような意味を持つのか、あるいはあるのだとすれば、「スイカに塩」という程度のことですから「今のスイカは甘いんだ(ぞ)」と返しておきます。

 

今回はこんな感じです。

レースとレースのインターバルとはいえ、それを免罪符にするならもうひとつキラリと光って欲しかった、そんなところでしょうか。

とにかく、ピュアメカニズムとして疾駆するスープラに見どころをおいて次回を待ちたいと思います。

 

それでは。