5話です。

視聴後、何か書こうとしてなかなか思い至らなくて、少し日を開けながら考えてみて何か書けそうになったので書いていきます。

ついでに、というか書きづらかった理由のようなものも冒頭に書き出しておきます。

 

本話の全体的な印象は、連続ドラマの中の一つの話、といった程度のもので、キツい言い方をすれば、ドラマのような映像が流れているというか、ドラマのようなものを見ている気分があって、そこが何か書こうとする気持ちをくじいていました。

 

もう少し具体的に言えば、今回スポットを当てた落合裁判官が、前話の門倉裁判長のような国家が仮託した司法(権)のありよう(発露)といったような、ひとつのテーゼを堅牢に示したほどのトピックがなくて、平易に言えばインパクトに乏しかったといいますか。

安堂と門倉が示したテーゼは、落合へ継承されないで、そのバトン渡しを拒絶する方向でドラマを組んで見せたのなら、いきおい上手くいっていなかった印象です。

 

むしろ、その「バトンの拒絶」に補助線を引いてみれば、劇中において不足証拠の収集を裁判所で行ってはどうかいう安堂の提案を却下したり、議場外でのやり取りも「法廷で聞く」とこれまた拒否したりと、これら一連の姿勢が回答なのかもしれません。

これをさらに補強したのが津村執行官の、安堂を評する「箱から出る裁判官」というもので、落合の言葉と双幅して、作劇を冷やす作用となっています。

 

主人公たる安堂を中軸とした見立てではこの際、視座をかく乱するので、そこを外せば、落合、津村が示したのは「裁判官は原告と被告の間にあって、いずれにも依らない」というもので、少し柔らかく表現するなら「どちらにも肩入れしない」というか。

この視座は、およそ裁判というものへ持ちうるイメージとしては、(大)前提というものであり、その素振りさえ忌避されることは論を待たないと思います。

 

表現を変えるなら「不動の存在」といっていいのかもしれません。

動けば、どちらかに寄ってしまうかもしれない。

どちらにも寄らない軌道を想像するより、いっそ動かない方がその心配はないということで、そういう信頼や安心への体現としてみるなら、「箱から出る」とした津村の言葉は、にわかに肯首できないところです。

 

落合が発露してみせた、(証拠集めは検察と弁護士に依拠するという)ごく当たり前の、普遍的な裁判へのあり様は、(国家観においても)重要なコンセンサスであり、裁判を扱ったドラマ作品にも大抵、息づいているわけで、そういうものを背負っているともいえます。

これを主人公たる安堂の挙措に照らすと、本ドラマ(固有)のアウトフレーム否定になりかねなくて、彼の目線によるとなお強烈なアイロニーにもなって、(わざわざ作った)ドラマツルギーと相反してしまう。

少なくとも、ドラマのメーンテーゼに関わりのない所在において、(サブキャラクターに視座をあてるオムニバス形式を使ってまで)わざわざ画面に広げてみせるものではなかったのではないでしょうか。

 

もっとも、この時間を割いた場面づくり、シーケンスに意味を読み解くなら、本作のメーンテーゼが「発達障害の裁判官に裁かれたいか」という硬度の高いものならば、そのテーゼだけでやりたくないか、あるいはそれだけでは不安になったということなのかもしれません。

いずれにせよ、良く言って製作側の逡巡、悪く言えばドラマを始めるまでに断ち切っておくべき未練というもので、いかにサブタイトルで「書証主義と人証主義」と仮託してみせても、かえって寒々しいといいますか。

 

総論すれば、気弱な保険をかけず、原作というバックボーンがあるならむしろ胸を借りて、主題を射止めた一点突破に踏み込んでもいいんじゃないか、そんなことを思いました。

だからちょっと書き出すのに躊躇したということで締めておきます。

 

今回はそんな感じです。

それでは次回。