どうも、こんにちは。

 

 

私は大衆が好むものを好めないことがある。

決して、逆張りをしたいのではない。純粋にそれに触れてみて違うなと感じるのである。

周りが騒々しく興奮している中、ひとり興に乗れない心がその場に置いて行かれるのだ。ただ、仲間外れは嫌だから外側は染めていくし、段々違和感を覚えたこと自体が可笑しいんだとどこかで思っていた。

 

 

私の好きなものは理解されない。

何かきっかけがあったんだろうか。積み重ねなんだろうか。

ずっとずっと事あるごとにそう思っていた。なんなら今でさえそうであり、見せる/見せないのせめぎ合いのフェーズを時折経る。

とにかく、子どもの頃から好きになる数々のものが私だけの好きだった。

 

いや、そりゃそうだろ。

もし、人の死を繰り返す曲が好きと言ったら?

もし、世界を憎む曲をよく聞くんだと言ったら?

そんなもん理解されるわけないんだよな。ピチピチの小学生だぞ。怖いだろ普通。

理解されない・共感されないのは当たり前である。さすがの小学生私もそれは分かっていた。

だから、誰にも好きだと公言しなかったし、共感を求めることもしなかった。けれど、志向は揺らがなかった。

 

 

そうして、 自認:「きっと他とは違う普通じゃない私」ができた。

人の好きを理解できず、理解されないものばかりを好きになる。

 

 

 

ここに、さらに現実的な要素が拍車をかけた。

まず髪の毛が違った。当時、サラサラストレートヘアが可愛い女の子の象徴であった。対して、私は天然パーマ。パーマといって想起されるのは、大阪のおばちゃんか音楽室に飾られたバッハの肖像画くらいである。この時点で、すでに普通の子と同じ土俵に立っていなかった。私にとって、真っ直ぐな髪を備えていることがスタートライン、天パなど論外である。自分を嫌いだったという覚えはないが、好きだった覚えもない。そもそも、好き嫌いは自分以外の対象に持つ感情であって、「自分のことが好き/嫌い」なんて発想自体がなかったと思う。だから、何の感情も思い出せないのだろうが。

そう、自分を嫌うことはなかったが、常に人が羨ましかった。私は「容姿」という項目で普通ではなかった、劣等種のほうで。心のどこかでそう認識があったから勉学で評価されにいったし、運動も人並み以上にできた。黒星が決まっているから、他でつり合おうとしていた。

 

 

また、はやくからニキビができた。

記憶している範囲では、小学3年生の頃にはもう顔に出ていた。周りにはいなかった、私だけ。

その出来様も酷かった。膿んだもの、大きさで輪郭が変わるほどのものもあった。当時は人より大人っぽく振舞うのが好きだったから、人より早く大人になっている証拠だなんて微かな優越感があった。なんと素晴らしい思考の転換法であり、お門違いな優越感なのだろうか!

ある時にはできた数を数えて絶望して笑えたし、「何かできてるよ?病気?」と聞いてきた奴には殊更丁寧に説明してやった。「人の不幸を喜ぶのは良くないこと」その常識を持ち合わせていながら、ニキビができてきた人のことを見て、嬉しさを感じずにはいられなかった。

 

 

 

 

どうしようもないことで違ったのだ。

「人と違う」という特別感が朧げな自尊心を生成していった。

そうして、当面の間「普通になること」「人より少し優れること」が私に対する物事への指標・基準となった。

周りはよく私のことを真面目だね、というがそれは違う。根の部分で圧倒的に不純なのだ。

真面目:うそやいいかげんなところがなく、真剣であること。本気であること。

そんな聖人君主ではない!そういうフィルターをかけられても困る!期待に応えようとしてしまう自分がいるから!

このこじれて捻くれた取り繕いの私を「真面目」という言葉でまとめて欲しくない!……自分めんどくせー。

 

 

 

 

そろそろ終わりにしましょうか。

現在の私はというと、「普通でいたい自分」と「自分は特別なんだ」という意味の分からない矛盾に苛まれている。

おかしくて笑いながらこれを書いている次第である。成長してねぇな。

日々、意外と自分がまともで普通であることに驚いたり、やっぱり違って悔し涙を流している。

私の根幹に関わるお話でした、終わり。

 

 

 

P.S.

死を繰り返す曲=カゲロウデイズ(自然の敵P)

世界を憎む曲=パラジクロロベンゼン/アンチクロロベンゼン(オワタP)