4、般若波羅蜜多心経を学び直してます。空とはなんぞや!を1つ1つ細かく解説してくれる観自在菩薩様 | ながおりょうじゅんのブログ

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舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不滅

舎利子というのは、シャーリプトラの事ですが、シャーリーというのは母親の名前。プトラは弗、息子という意味です。
本名はウパティッサ。バラモンに生まれた僧。
釈迦の寿命と死因を予言し、釈迦より先にその身を飢えた狼に食べさせて死んだアッサジ(これもアッサジ自身が予言していたとされる)から釈迦の教えの一部を聞いて、目連と共に釈迦の弟子になり、あっという間に悟ったとされます。

後に釈迦の息子ラーフラの師僧になります。

この舎利子は、釈迦より年上の人で、後に病を患い、許可を得て家族のもとへ戻り、母親に看取られて死にます。
また、ダイバダッタという釈迦の弟子を500人ほど奪って宗祖になろうとした人がいて、その弟子達を舎利子は取り戻したりもしています。



観自在菩薩が、舎利子とわざわざ名前を呼んだのは、空と色についての教えを聞いて、「気を散乱させないように」という思いであり、これは舎利子を通して教えを聞いている弟子全てに対して言っているのです。

我々も、おそらく舎利子と同じように、論理的に般若波羅蜜多心経を理解しようとすればできない矛盾点が出てくるし、非論理的にありのまま理解しようとしても、腑に落ちないと思います。

舎利子は、熱心に学び、修行をしているので、教えに対してとても懐疑的だったと何かの文献で読みましたが、とにかく腑に落ちない事は質問していたようです。なので、経典の問答に名前がよく出てくるわけですね。

この般若心経でも、日本にはない前書きのところでは釈迦が集った弟子達自身で理解を進めたりするよう加持を与えていて、それを理解した舎利子が観自在菩薩にみんなの代表としてどう般若波羅蜜を理解して修行すればよいのか聞いているのです。



さて、本文に入りますが

諸法というのは一切の現象の事を言います。
それらも全て空という本質を持つもので、前回伝えた五蘊(物質的存在(色)、感受作用(受)、識別作用(想)、形成力(行)、認識作用(識)のこと)の他に、

眼、耳、鼻、舌、体、心という「六根」、
その対象となる色、声、香、味、触、法という「六境」、
そして認識する眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識という「六識」、
合計「十八界」も空である。

また、釈迦が最初に説いた、現実の人生の苦悩の根源を断つことによって苦悩を滅するための12の条件、
煩悩の根本が無明であること(無明)、
物事がそのようになる力=業(行)、
好き嫌い、選別、差別の元(識)、
実際の形と、その名前(名色)、
眼耳鼻舌身意の感覚器官(六処)、
外界に触れる感覚(触)、
感受作用(受)、
渇愛、妄執(愛)、
執着(取)、
存在。生存(有)、
生まれること(生)、
老いと死(老死)という「十二支縁起」についても空であるということ。

そしてもう1つ人間が避けてとおることのできない苦しみと(苦諦)、それらの根本原因(集諦)、それらがない境地があること(滅諦)、そこへ至る方法(道諦)も空であるということ。

一切のものについて完全に知る仏の智慧(一切智)も空であるということ。

・・・ということを「知るべきである」と観自在菩薩は言うのです。

空というのは
捉える特徴がない(無相)なので、虚空(自分の感じたり認識してるもの)には相がないので、煩悩というものも、完全なる浄化というのも存在していない。
存在していないのだから、生じることも滅することもないし、すべての意識によって主体や客体(主観や客観)もない(不垢)からそこから離れるということもない。

増えることも減ることもないというのは、我々人間(有情)が減って悟った人(仏)が増えるということもない。そもそも有情とか仏といった存在も空なので探してもその存在は見つからない(空だから)という。


実は般若波羅蜜多心経の色と空についての説明はここであらかた全部済んでいます。

!Σ( ̄□ ̄;)まじで!


あとは、もう一度色と空を説き直してます。

是故空中 無色 無受想行識 
これは空の中に色はない。
色は物質的存在なので壊れる特徴を持っています。空は壊れるという特徴がないので、色ではない。
その他の五蘊もそれぞれ体験、促われ、何かを形成する、個別にそれぞれの特徴を捉える、という特徴を持つものなので、空にはそれが無いから五蘊ではない。


無眼耳鼻舌身意 (六根)
無色声香味触法 (六境)
これも眼耳鼻舌身意にはそれぞれ見る、聞く、嗅ぐ、体験する、触れる、違いを調べる、という特徴を持つものなので、空にはそれがないから六根ではない。

色声香味触法にはそれぞれ物質的存在には色と形がある、快い音や不快な音がある、匂いがある、味わう、触れる対象に柔らかさや粗さがある、様々な現れがある、という特徴があるので、空にはそれがないから六境でない。

無眼界  乃至無意識界
これは眼の見える領域(眼界)から非感覚的意識の領域(意界)まですべて特徴があるので、空にはそれがないから六識ではない。

十八界(六根、六境、六識)もそれぞれの特徴によって苦しみが生まれるので、空にはそれがないので十八界ではない。

無無明  亦無無明尽  乃至無老死尽
無明から老死までの十二支縁起は、輪廻の促われという特徴を持つし、浄化という特徴も持つ。空にはそれがないから十二支縁起ではない。

無苦集滅道 無智亦無得

苦は煩悩という特徴、苦の因は煩悩の原因となる実質因という特徴、苦の死滅は寂静の特徴、苦の死滅に至る修行道は智慧の特徴を持つので、空にはそれがないから四諦ではない。

智慧は一切の事物を直接知覚で観ずる特徴を持つので、空にはそれがないから智慧ではない。
また得ること(完全なる悟り)も得ない(悟れない有情)ことも、そもそも空には悟りも有情も存在していない。

空とはこのようなものである。
と、細かく説明している。


以無所得故  菩提薩埵  以般若波羅蜜多故

大乗(人々を悟りに導き救済に励む)の実践に入った菩薩は五蘊から一切智の境地に至るまで何ものも得るものがないと知って、どのような現象に対しても、微塵も実体を観ることなく般若波羅蜜を実践すること。

一切の現象は空であり、とどまることがないという特徴を持つものである。
しかしそれを我々は知らないで惑わされた心によって、暗闇の中で輪廻の海を巡り、さ迷ってしまう。
錯乱した心の本質は三種の智慧(聞、思、修)によって分析するならば、心には対象がないので煩悩を観ることはなく、完全なる浄化も観ることがなく、五蘊から一切智の境地に至るまでの一切を観ることはない。
空性、無相、不生、不滅なども観ることはない。
智慧の本質さえ真理に従って観ることはない。
何も観ることがない、ということが心の自性であると観る。

心の自性を観る者は悟りを観る。
悟りを観る者は真如(ものの真実の姿)によって仏陀を観る。
真如によって仏陀を観ることにより、完全なる悟りを実現し完全なる仏陀となる。


つまり、実体として対象を観ることなく、人々にたいして利益を行い、そのもの達も完全なる悟りに向かって広がっていくように続けていき、悟りの彼岸に至るための6つの修行徳目(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若)などの実体を観ることなく実践することである。

ついつい、我々は「こうしなくてはなれない」とか、「こうならなくてはいけない」といった教えに捉われて、本来行うべき大乗の目的を見失ってしまいます。


日本語に訳してる空というのはただ何も存在しない、幻とかいった言葉であることが多いと思うのですが、それだけを説明してしまうと、この世の中に存在するあらゆるものに対して価値や意味を持たない虚無論に陥ったり、空だからって事で自分だけがよければいいという都合のよい行動に陥ってしまいます。

だから般若波羅蜜多心経はちゃんと意味を知って唱えたり写経したりした方が自分にとってよい功徳が得られるのです。


この功徳というのは
心無罣礙  無罣礙故  無有恐怖  
遠離一切顛倒夢想   究竟涅槃

般若波羅蜜の空の意味を聞き、考え、瞑想することまでを恐れることなく実践することにより、心、意、識、習気(癖)のすべてを断ち切るので、心に障りがなくなる。

また、宗教を学んでない者とか、学んでいても声聞乗(聞くだけの学び)の人や、独覚乗(一人で悟る道を選ぶ人)の人の実践する対象から離れて、煩悩障(貪欲・瞋恚・愚痴・傲慢・憎悪・疑い深い・妬みなどの煩悩からくる障り)、所知障(知るべき事に対する障り、学習によって得られた障害、生来の障害など)を1つ1つ無くしていくと、涅槃(障りを滅却して安らぎの状態。心の迷いがなくなった状態)に至るのです。



今日はここまで。
また続きは次回。