こんにちは。
和歌山のなかよしです。
気持ちのいい連休日和が続いていますね。
その中で気づいたことをシェアさせてください。
先日のこと。
母が子どもにと
お手製のおいものだんごを送ってくれたんです。
お昼頃届いて
夕方に帰って来た子どもが開封したんですね。
わたしもご相伴に預かろうと見てみると
あらっ、カビちゃんが(>_<)
前日に作ってタッパーに密封したものが
冷蔵でなく常温で送られて来て
わたしも部屋に放置だったので
いずれかの段階で繁殖しちゃったのでしょう……。
これが「事実」
このことに対して
もちろんわたしも残念でしたが
その時はただ<あーあ>と思っただけでした。
でもパパちゃんが
「どうして冷蔵庫に入れておかなかったんや。
せっかくのご厚意が……。
届くって知ってたし(事前にお知らせハガキが来ていた)
「なまもの」ってシールがちゃんと貼ってあるじゃないか」って言った時
わたしはカチんと来たんですね。
それは「責められた」と取ったから。
そして同時に
「まだこの時期は痛むかもしれない」と気がまわらずに
冷蔵庫に入れていなかった自分を責めた。
でも
ふっと
<あー、今わたしは「判断」の世界に居る>
と気づいたんです。
1つの「出来事」をある角度から見て枠にはめているー。
この場合
せっかくの母の好意。
うっかり常温で密封して送って来たとしても
わたしが届いたらすぐに冷蔵庫に入れておけば
痛まなかったかもしれない。
パパちゃんは
こちら側として最善の選択を言っただけのことで
(母の側はどうしようもないから)
わたしを責めるつもりはなかったのかもしれない。
でもわたしは今までのくせで
責められたと思ったし
自分でも自分を責めた。
それで自分に対しても
その場にいずに理想論を言っているパパちゃんに対しても(失礼っ)
さらには常温で密封して送って来た母に対しても腹が立った。
うわーーー。
「善悪」で見ると楽しくなーい。
これが今までの世界だったんですね。
で
この後
食べられなくなったおだんごをコンポストに入れようとはっぱから外しながら
「人間は食べられなかったけれど
このおだんごをちゃんと分解してくれる生き物がいて
ほんとテラってうまくなっているなぁ」
ってつぶやいたんです。
そしたらパパちゃんが
「そうでなくっちゃ大変なことになる」
って言ったんですね。
それでなんかほっとしたと言うか
<あー、パパちゃん怒ってなかった>
と思ったです。
それで
わたしの中に
「怒られるかも」という恐れとか
「怒られたくない」という気持ちがあるんだなぁ。
と発見があって
<ああもうほんと
いろんな縛り(思考)があるんだなぁ>
ということに気付いた出来事でした。
今回は深くは掘り下げませんでしたが
でも
自分で自分を縛っている「思考」は
気付くと解放して行けるので
それでいいかな、と^^
ここまでお付き合いくださり
ありがとうございました。