つながりを紡ぎなおす日々

つながりを紡ぎなおす日々

コミュニティ開発・地域開発を担う人財の育成を支援するNGO Commu代表 椿原恵のブログ

コミュニティコミュニケーション・サポートセンター
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あなたにとっての「あの日」「あの時」はいつですか?

 

あの日あの時のひとつひとつの出来事が、いまにつながっている。

いまの私と、活動への想いとを、支えてくれている。

でも、あの日あの時には、まだ、わからなかった。

 

1996年8月8日

偶然、あの階段で会った。

なんだろう、不思議だね。

「神様が与えてくれたひと時のゆとり」だと、言った。

私にとっては、どんな意味があるのだろう…

 

その日の日記には、そう書いてあった。

でも、いまは「あの日の意味」「あのひと時の意味」がわかる。

あのひと時があったからこそ、その人からもらったものを、学びにすることができた。

そして、あの日から13年後に、私はCommu(コミュ)を立ち上げ、その人はこの世を去った。

 

活動していると、原点やモチベーションについてきかれる。

いまは、原点といえる出来事も、モチベーションといえる頑張れる源も、自分の中にしっかりとある。

けれど…それは、あの日あの時から何年か経って、あの日あの時を今の自分に照らしたり、今までの自分を編集して、見つけたものだ。

 

そう、誰でも「あの日」「あの時」があり、そこから何かを見つけることができるのだと思う。

だからこそ、いま、自分には何もないと思っている人や、私にはできないと思っている人に、伝えたい。

 

いま、自分が思ったこと、感じたことを大切にして、ちょっとだけでいい、何らかの行動をしてみてほしい。

私が、「あの日」「あの時」を自分の中で位置づけることができたのは、「あの日」「あの時」のことを、「日記につけていた」からだ。

ただ、それだけのことだ。

そんな些細なことが、ちゃんと自分の道に、なっていく。

私は、そう思う。

「評価する」ことがつづくと ココロがつらくなる


人を評価しているわけではない

その事業がもつ可能性を評価している そう思っている

評価が人々の暮らしや社会がよりよくなることにつながると

信じているから


それでも 評価を受ける側は人間

そこには さまざまな感情が生まれる


その感情を 私は どうすることもできない

そんなときは 自分で 「評価をする自分」を問う


自分を問うことは むずかしい

だから このうたを きく


♪ 12号室 作詞・作曲:SION


私のことをかわいがってくれた

施設で暮らす おねえちゃん おにいちゃん


あの人たちに 私が抱いた感情は 消せない

そのことをずっと後悔している


10代の終わりにこのうたをきいて 自分を問うことを 学んだ





みなさんは、関わっている方々をどのように呼んでいますか?


例えば、職場なら「課長」とか、「鈴木課長」とか、「鈴木さん」とか。

職場でも、役職ではなく「~さん」と呼ぶとか、名字ではなく名前で呼ぶとか。


私たちは、基本的には、代表でも理事でも日常的には「~さん」で呼びます。

意思決定をする場で、理事とアドバイザーとスタッフとの権限を分ける必要があるときは、「~理事」という呼び方をしています。


もうひとつ、私たちは研修講師やファシリテーターやアドバイザーという役割や機能で、現場にお手伝いとして参加させていただく機会が多くあります。

その時に、「先生」や「椿原先生」と呼ばれることがあります。


基本的には、「『椿原さん』と呼んでください」とお伝えしますが、なかなか呼びにくい場合もあるようです。

そんな時、研修講師の役割の場合は、しかたなく受け入れます。


しかし、ファシリテーターやアドバイザーのように、「何かを共に創りだそう」「共に取り組んでいこう」という場に参加するときは、しつこく「椿原さん」または「恵さん」と呼んでもらうように、お願いします。

そして同時に、その場に参加してくださっている方々にも、「自分が呼んでほしいと思う呼び方で、互いに呼びあうこと」を提案します。


何が違うのだと思いますか。

そして、何がうまれる、何がうまれない、のでしょうか。


私は、「先生」と呼ばれていると、自分自身が話しすぎてしまう傾向にあることに気がつきました。

「先生-生徒」の関係のように、学校教育の中でしみついてしまったイメージや感覚を無意識に自分で再現してしまっている状態になっています。


このことは、私たちのような市民活動に取り組む者にとっては、とても怖いことだと、私は考えています。

でも、「絶対に先生と呼ばないでください」と相手に強制や強要することはできません。


じゃあ、どうしたらいいのでしょうか?

そこで、私は、研修で「レクチャー」という表現を使うのではなく、私が学んできたことを「共有する」という表現を使うようにすることにしました。

まだ始めたばかりで、自分のものとなっていないため、つい「レクチャー」と言ってしまうこともあります。


それでも、「共有」と表現することで、自分自身の姿勢に変化を感じます。

また、私は研究者ではありません。

だから、私がみなさんと研修で共有している理論とは、書物や「先生」から学んだり、実践に照らして導き出したり見つけたりした実用的な知なのです。

この「知識」を、多くの方々と共有することで、社会で必要な活動を考えたり、共に取り組む人々と出会ったりしているということなのです。


私たちが団体名につかっている「コミュニケーション」とは、相手と同じものをもつ、ということです。

相手と分かち合う、ということだともいえます。

この観点からは、「シェア」という表現もよく使います。

市民活動では、この「シェア」「共有」という考え方はとても重要です。


しかし、私自身は、「先生と呼ばれること」で、「シェア」や「共有」という姿勢や考え方を無くしてしまいそうで、そんな自分自身を不安に思っています。


同時に、誰かを「課長」「先生」というように、役職や肩書だけで呼ぶと、その人は自分自身にとっては「課長」「先生」という立場や役割だけの関わりとして、認識するようになるのではないかとも思っています。


活動の場によっては、すべての人を「~さん」と呼ぶわけにはいかない時もあります。

そんな時は、せめて「鈴木課長」「鈴木先生」というように、名字か名前をつけるようにしています。

私にとって、私たちにとって、お一人お一人が大切な関わりをもつ方々だという意味をこめて。











「わからない」 久しぶりに、そう感じた。


2011年3月11日

どんな気持ちだったのだろう。

どんな状況におかれていたのだろう。


想像してみるが、想像できない。

私なりに、似た経験を重ねてみる。


震災直後の私は、話を聴いたり、映像を見るだけで

震えがおき、涙が止まらなかった。

その後も、人々との交流の中で、

私は、人々に “寄り添っている” そう思っていた。


しかし、“寄り添っている気”になっていたのだと

3月11日に祈った時に、気がついた。


この日、3.11「いのちを想う」キャンドルナイトin大牟田で

詩を朗読する機会をいただいた。


子どもたちが書いた詩の「家族」「ありがとう」と、

黛元男さんという詩人の方が書いた「農夫の死」という詩。

「福島の野菜農家が自殺 摂取制限指示に もうだめだ」

(朝日新聞2011年3月29日) 記事 (リンク)


この記事の内容を詩としてよんだもの。

私は、何度もこの詩を読んだ。

心を寄せようと、想像してみた。

でも、やっぱり、「わからない」。


この体験を通して、「想うこと」「寄り添うこと」はできても

けっして「わかる」ことはできないのだと、痛感した。

私たちが取り組んでいる国際協力活動で出会う人々との

関わりもおなじ。


「わからない」 ということから、始めること。

だからこそ、「わかちあう」 ことで、わかろうとする。

そのことの意味を、あらためて考え直す機会となった。


つながりを紡ぎなおす日々-3.11

3.11 「いのちを想う」 キャンドルナイトin大牟田 

(主催:原発事故から学ぶ実行委員会)







2013年3月2日(土)~3月3日(日)@JICA横浜で、北は北海道、南は九州まで、全国の開発教育実践者が集い、経験を共有しました。


今回のテーマは「開発教育のあたらしいネットワークの構築に向けて」でした。

それぞれの実践者が、どのような組織とパートナーを組み、開発教育に取り組んでいるのか整理しました。


Commuは、コミュニティ開発や地域開発を担う人財の育成を支援する活動をしています。

Commuだけでできることは限られています。

けれど、それぞれの足元のコミュニティや地域に根差して日々の営みを改善することや問題を解決することに取り組んでいる人々に、Commuのパートナーになってもらうことができれば、より多くの困っている人や支えを必要としている人々の役に立つことができる可能性が高まります。


だから、このネットワーク図に描かれている組織とコラボレーションすることで、描かれていない人々とつながっているのです。

そのことを再確認するネットワーク図づくりでした。


つながりを紡ぎなおす日々-commuが開発教育を実践するためのネットワーク


□(特活)開発教育協会 web

□ネットワーク図:関係性を扱うPRAの手法




20代始めの頃のことが映像とともに甦ってきた。

十数年ぶりに聴いたGLAY の曲。


その時代時代の思い出がつまっている曲がある。

その中でもGLAYの曲は特別だ。

私がフォトグラファーとしてやっていきたいと決め、初めて撮影させていただいたのがデビュー直前のGLAYだった。


あの頃は、楽しい毎日だった。

けど、どこかでここは自分の居場所じゃないって思っていた気もする。

今振り返ってみると “フォトグラファーでいる自分”を演じていた気がする。


「自分」で勝負していないっていうか・・・

職業とか、友達が誰とか、何を着ているとか・・・

そんなことでしか「自分」を表現できなかったような気がする。


だからこそ、“自分を表現して生きること” “自分は自分でいい”と思えることの自由さを、いまは存分に感じることができる。


撮影の帰り、車で20号を運転しながらGLAYの曲を思いっきり歌い、自分の経験を重ねて涙したり、じーんとしたり・・・、その時間だけは心の思うままにいられた。

将来のことなんて考えず、瞬間瞬間を生きていた。


GLAYが今も歌い続けていてくれるおかげで、過去の自分と出会えた。

そして、いま、自分をしっかり生きていることを感じることができた。

「どんな自分も自分」だと、今は言える。

だから、ダメな自分も、うまくいかない自分も、こうありたい姿とギャップがある自分も、その時その時をしっかりと生きればいい。


今日の自分を生ききる。


きっと、生ききってきた自分を愛おしく思える日が必ずくる。


今日まで生きてきた、生きてこれた自分にありがとう。

GLAYの曲が、「がんばったね」って自分に言ってくれている、そんな感じがした。











「良かった~」と心から思い、そして正直ホッとした。


小規模多機能ホーム「こどう」 を訪問した感想だ。

私は、2010年度より「社会福祉施設等 評定委員」を務めさせていただいている。

特別養護老人ホームや地域密着型介護老人福祉施設など、申請された計画を評定する、つまり整備する法人を選定する役割だ。


どの法人さんも、工夫をこらし計画をつくっている。

その中から、一つの法人さんを選定することは、責任が大きい。

私は、実際に法人さんが運営する施設を見学したり、職員の方に話をうかがったり、施設の周りの住民の方に印象を聞かせてもらったりしながら、計画書に書かれている文字だけでは把握できない情報を集め、判断することにしている。


だから、施設ができ、その施設がどのように運営されていくのか、そこを利用する方がどんな気持ちになるか、おおよその想像はつく。


でも、やはり不安は残る。

そして、委員として判断した初めての結果。

「こどう」を実際に訪問し、心から嬉しく、ちょっと涙ぐんでしまった。


ホームページの写真では分からないが、施設の内側には芝生の広い憩いの場が広がっている。

適度に住宅街に解放され、かつ危険のないように配慮された配置になっている。


建物の中は、とても心が安らぎ、落ち着く。

自分の家族に利用してほしい、そう思う空間だった。


このように、実際に目に見える、感じることができる評価結果。

実際の事業の評価においても、自分が判断した結果について、丁寧に見ながら、その結果にしっかりと向き合い、次につなげていきたい。










 人は 音楽がなくても生きていけるけど

 音楽によって感動して がんばっていける人もいる

 そういう仕事はカッコイイじゃん



その人は、ミュージシャンでも、プロデューサーでもなく、コンサートを創る人だった。


「ステージで輝く人には、バックステージで輝いているスタッフがいる」ということを、身をもって表現している人だった。


私がいまでも、“チーム” で成果をだす ということを大切にしているのは、当時、多くのことをその人から学んだからだ。


その頃は、“ファシリテーター” なんて言葉はなかったけど、まさしくファシリテーターだった、と思う。

それも、自分も行動する・・・。


私たちのような市民活動は、共感や賛同を紡いでいくことが大切だ。


そのためには、「伝える」ということが欠かせない。

でも、「伝える」ということと、「伝わる」ということの間には大きな隔たりがある。


その人から学んだ もっとも大切なことは、言葉だけではなく、“行動する” ということだった。


「伝える」のではなく、「行動によって伝わる」。

そして、「伝わる」と、人の心が動く。


その「動き」は、がんばろう、生きていこう、そんな想いになっていく。

そう・・・なんだと思う。


そんな想いがわきあがってくる 行動をしていこう。


震災がおきて つらい 悲しい いま、その人が、2009年11月に亡くなっていたことを知ったことの意味。


その時、そして今でも、その人のことを発信する人々が多くいる。

いちスタッフだったその人の名前が、web上で多くのことを語っている。


「伝わる」ということ

がんばろうと 思う ということ

生きていこうと 思う ということ・・・。


自分が動いて表現する、ということ。


私は、音楽によって表現すること に関わる仕事を離れたけれど、私たちが取り組む活動によって、生きていける がんばっていける 人がいる。

そうなっていってほしい、そう願いながら活動している。


誰かのため ではなく、私も含めて 共に生きるために。



約20年前、まだ将来に悩んでいた学生だった私に、ある人が言った。

私が、色彩心理を学んだハート&カラー 内に設置されているアート&セラピー協会東日本支援クレヨンネット 」より、以下の情報提供がありました。

ぜひ、機会と場がある方は活用してみてください。


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クレヨンネットNEWS <20110323>
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アートによるメンタルケアの具体的な方法について
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震災から10日が過ぎ、各地でボランティアの声があがる中、こちらの事務局へも、協会員だけでなく一般の方からも「自分にも何かできないだろうか」という声が寄せられています。
そこで、アートによるメンタルケアの具体的な方法をまとめました。

私たちの活動は、人の心に触れる活動です。

大切にきちんと向き合う必要があります。よく読んで、活動されるようお願いいたします。

下記URLよりPDFをダウンロードできます。

http://www.heart-color.com/scociety/scociety_images/crayon-net0322.pdf

お問い合わせ連絡先
  アート&セラピー協会東日本支援クレヨンネット(担当/マノメ)
http://www.heart-color.com/archives/2011/10/post_104.html

  Tel: 03-5474-7810 / fax: 03-5474-2860
  E-Mail:
colorlink@heart-color.com


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