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Stockholm

収束

カムバックした彼らはとても忙しそうで、私もまた仕事で微妙に忙しい。けど桃源郷は求めてしまう。どんなコンセプトでも彼は綺麗だ。憑依型って言葉だけで納めたくない、彼の努力の賜物なのだと感じる。


でも悲しいかな信仰まではいかない。私は30代だから。夢は見るけど信仰対象ではない。というかそんな重いものを彼にのせたくない。ただ綺麗で美しくて、たとえるなら禁断の果実のような。どこか危うさをまとっているだけ。


多分この苦行が終わったら私は彼らのことは一旦忘れるのかなと思う。つかの間の、タイミングが良すぎただけの恋。私と彼らを結ぶものはあまりない。ただ今は、ほかの何よりも求めてしまう。君と同じく香りを求めてしまう。


ああ、眠い。いつか夢で逢えたらな

君の誕生日が良き日になりますように




概念としての彼がとても好きなだけで

果たしてそれは本当の好きと呼べるのだろうか


振り返ると私はいつもそうだ。雰囲気に心を奪われるだけ。かつて好きだったあの人もそう。ギターを弾く姿が綺麗で、好きだった。でも今思うとただそれだけで。今もあの人はギターを弾いているだろうけど、それは最早私が好きだったあの人ではない。



あの島で死んでしまったあの青年のように時を止めてしまえば、嫌いになることも幻滅することもないのに。そんな卑屈で最低な気持ちがじわじわと広がる。私が私であるために、誰かの死でも見ていないと正気を保てない。昔からホラーが好きな理由もそうだ。誰かの死を見ることでしか、私は生きることに安心を見いだせない。



毎日自分を嫌いになるばかりだ。誰か助けてと心の中で叫んでもどうにもならないのに。この文章も中断させられることを恐れて早足で書いている。せめて、夜中くらいは自分が自分でありたい。怖いんだ、私の中に私の知らない醜い自分がいる。見た目がすでに醜いのに、内面まで腐敗しているだなんて、あまり笑えないよ。

 


自責の世界のなかで生きていたかった。

もしも、もしも2019年のあの時点で彼に、彼らに出会えていたら?私は幻想の中で生きることを選んだかもしれない。


もうひとつの人生、もうひとつの私。記憶を保持したまま2019年にタイムスリップできたのなら、もしかしたら先生も救えるかもしれないのにね。でもそれは今ある生の否定になってしまうという皮肉。ああ、せめて先生が生きていてくれたら。先生の新刊を楽しみに生きれたかもしれないのに。




こんなことを連日書きながら普段は明るく笑顔で接している。私がこんなことを考えてるなんて誰も知らない。突然いなくなる人の気持ち、私は分かるかもしれない。きっと背負うのを少しやめただけ。少し死んだフリ、冬子さんが言ってたみたいに。2番目に好きな人に手紙を書いて、1番好きだった死んだ恋人の元にいっちゃった冬子さん。私はきれいだなぁと思った。本当は少し羨ましかった。



でも今日は彼の誕生日だから死なないよ。おめでとう。生まれてきてくれてありがとう。幸せになってね。君の舞台を見れて本当によかった、それだけは本当。妖精みたいだった。今日は車で30分もかからないところに彼らが来る。私は行けないけど、ああ苦しい。一目でいいから貴方を見たい。叶わないけれど。でもそれでも、貴方が貴方の望むものを見つけられたのなら、それで私も嬉しいかな。多分。




毎日本当に苦しい。せめて夢で会いたいな、今日くらい。私の探し物が君なら良かったのにな










何かの拍子に終わらないかなと、ずっと思っている。


妖精のような彼が今は日本にいるので少しだけ心が弾んでいる。海外の人を好きになるとこうやって来日してくれる度に嬉しくなるけれど、多忙すぎて倒れてしまわないかやはり心配になる。彼が努力家だと知ったので余計に。頑張りすぎていつも眠そう。


幻想は深くなって終わりが欲しくなる。今思ってみても、たとえば19のあの時に終わっていれば楽だったのかなと思う、のは、紛れもない事実であり。19。あのMVの彼と同じ歳。生きていたから彼に会えたのだけどね。でもやはり、やはり、やはり…という思いが募る。どこまで巻き戻っても私は汚い。


日が暮れる朱色の森の中で、心地よい風が吹く美しい湖畔で、時が止まった荘厳な古城で。そんな場所に行けたら私も美しくなれるのだろうか。


人生は選択の連続だ。もう戻れない人間関係も、進む道も。その辺に関してわりとドライな自分がいる。反面、夢で懐古するあたり、きっと後悔しているのだろうな、私は。


恋では無い感情で異性を好きになるのは楽で良い。彼のいるグループごと好きになれたのも良かった。私はまだ人をどうにか好きでいられる。




言い訳ばかり探して生きていていいのかな。先に死んで行った人達に笑われるかな。でもさ、そりゃそうだよねって笑ってくれた方が良いかな。私は他人の為に生きるのが下手くそだ。どうせなら命懸けで庇って私だけ死んで形上ヒーローになるとかさ、それが良いなと思ってしまう。大切な人を守れたら、その方が命の意味的なものがあるんじゃない?

いやまあ、むしろもうそれもどうでも良いと、少しだけ思っているけれどね。



死にたいばかりの日々だから文章を綴ってみたら支離滅裂だ。でもいいんだ、あと少しで彼の誕生日だし、私は会いに行けないけれどすぐ近くに来てくれるから。会えないけれどね。


ああ、心と体もしんどい。もう本当は誰にも会いたくない。誰か助けてくれないかな。早く幻影に会いたい、矛盾











彼を見つけた時、救いだと思った。



昔読んだ「秘密」という漫画のなかで妄想の世界で生きるおばさんのエピソードがあった。辛い現実を美しい理想で覆い隠して生きるその姿を見て、私は自分のようだなと思った。この世界を直視して真っ当に生きたら心が壊れてしまう。美しいものは手に入らない。


けれどそれは脳が作り出す幻想でいくらでも覆せる。可愛いお洋服も、キラキラした靴も、誰もが振り返る容姿も、妄想の世界では手に入る。誰にも笑われることがなく、1人の人間として尊重される愛すべき人生。それで辛い現実を覆い隠して何が悪かったんだろうか。幻でも彼女には美しい世界が見えていたのに。




私は現実を妄想で完全に覆い隠すことはまだできない。きっとできたら楽になるけど、どこかでまだ希望を捨てれていないからなのだろうか?

鬱陶しい現実が全身を取り巻いて、睡眠不足から来る死にたい気持ちに押しつぶされそうになる。


だから、私には救いが必要だった。



最初から目を引く人だとは思った。赤い髪が印象的な、楽しそうに踊る人。彼のダンスが一番目を引いた。その後彼がメインダンサーなのだと知ってとても納得したものだ。 けれど、ファーストインプレッションはそれだけ。


次に彼を見た時は髪色が違う色になっていて、随分印象が変わるんだなと思った。挑発するように不敵な笑みを浮かべてパフォーマンスする彼は綺麗だなと思った。彼が歌う歌詞に敬拝という意味の言葉があるのだけど、なんだか良い言葉だなと思った。綺麗で美しい彼を敬拝できたらきっと楽しいのかなと。


そんな気持ちで他のパフォーマンスを漁った時、私は見てはいけないものを見て、聞いてしまった。

割といろいろ音楽は聞いてきた方だと思うのだけど、久しぶりに衝撃というか、ああこれは一生好きかもしれないという曲に出会えた。そしてMVがまた素晴らしくて。イタリアで撮影したらしいその映像は、まさに私の理想郷だった。

とどめはその時の彼のビジュアルだ。

私の大好きな金髪で、湖畔で儚げに佇む姿を見たらもう駄目だった。


ずっと探していたものの断片に出会えてしまったと思った。神に感謝したいくらいだ。本当に、世界で唯一の光に見えた。



今死ぬことは出来ないのだけど、死後の世界を思うことはできるのだという思考が脳を支配していく。私の今際の際に幻想でも何でも良いから、あの時の、金髪の美しい時代の彼に会わせてほしい。そうしたら私はなんとか今を生きていける。そんなことが頭の中を強烈に駆け巡っていく。


麻薬みたいだなと思う。けれど、それで生きていけるなら、誰も私のことを怒らないよね?








また夜更かしをして馬鹿なことを書いてしまった。

けど今書いたことは残念ながら嘘じゃない。このブログは嘘だらけだけど、今回だけは本当。上手く言えないのだけど、私は今の私の惨状ではなく、魂を救って欲しいのだと思う。だってこのまま不理解で終わるなんて悲しすぎるじゃないか。妄想でも何でも良いから1人くらい私の味方になってほしい。大丈夫だと言って笑ってほしい。


けどそれは無理だから。無理なことを私はちゃんと理解しているから。あの曲を聞いている間だけは、私の心を勝手に救ってもらった気になっている。


いつか今際の際に、バルゲロみたいなあの湖畔で待っていてくれたらな。どんなことを話そうか。何も話さなくて良いから微笑んでくれたらな。醜い私はそれだけで、浄化されるよ。




彼が過労死しませんように。

ついでに私も寝不足で死にませんように

おやすみなさい。






今まで漠然と違和感があったものの答え合わせをした気分なのですが、ハッキリと分かるのは、そういう類いの感覚を鮮明にするのは精神衛生上あまり良くないということです。今まで信じていたというか、生活の根本にあったものが揺らぐのは、おそらく通常の感覚だと辛いと思われます。

ただ、わりと白黒ハッキリつけたい派の私は、どこかスッキリした気持ちを抱いているというのも本音です。まあ、良かったわ。茶番劇を演じてたのはお互い様ということで。お粗末さまでしたと言いたいけど、もう少しこの茶番劇は続けないといけないようです。OK、OK。そういうのは多少慣れてる。あと20年くらいなら多分大丈夫。


なぜ大丈夫かというと、私には書くという手段が残っているから。そしてこんな夜に一緒にいてくれる音楽があるから。人間不信というより元から人をあまり信じていない。信じていたというか好きだった人達は死んだりいなくなったりして今や私の心の中にいるのはほぼ死人だ。なんかやだな、そういう感覚になるの60代くらいからだと思ってたわ。いやだいやだ、最早イヤイヤ期なのかもしれない。本当に馬鹿らしくなる。


久しぶりにトラベルプランナーを聴きながら書いている。この曲を今聴くと、なんだか、あの時の選択は本当に合っていたのかと不安になった。もしあの時無謀でもなんでも気持ちを伝えていればとか、ああ、阿呆らしい。全く釣り合わない恋だったのに。いや、あれは恋だったのかすら今はもう分からない。10年以上前のことだもの。でもこうやって時々思い出したりするのは、どこかに後悔があるからなんだろうな。4月に書いたブログ記事の下書きをさっき見つけたけど、なんか唐突にあの人の夢を見たらしいしね。いやいや、執着?怖いよ私。


あの日僕が侮蔑の目を向けた大人の気持ちが今になって分かるとか本当に最悪だ。けど、これも仕方ないのかなと思う。どうせ明日になればまた忘れるくらい薄い想いになってる、今はもう、きっと。


本当に酷いな私は、冒頭のショックの愚痴を書くためにこのブログを開いたのに、全然違うこと考えている。今の実生活は濃厚だけど、どこか薄っぺらい。ドロドロのシチューみたいな毎日なのに。野菜が溶けてなくなってるような煮詰め具合。頭が沸騰したり弾けたりする日々。なのに、なんだろうね。思いをぶつけられないからなのかな、心のどこかで寂しさというか、侘しさを感じる。幸せな家族があるように見えるのに不倫して蒸発する人もこんな気持ちなのかな?


また夜更かしして、一体全体明日はどうするつもりなの私は。でも少しだけ自分の気持ちを吐露できた。やはり書くことは良い。もう前みたいには書けないけれど、書くとこが好きだと思う気持ちは以前と変わらない。よかったよかった。


せめて今も生きている好きな方々が、幸せな毎日を置くれていますように。もう会えないからこそ、そう思えるのかもしれないけどね。さあ、寝よう。

おやすみなさい


あ!!タイトルは最近の私の気分です。

神聖かまってちゃん好きだなー年々好きになる

まあ、私にはお友達いないんですけどね