次の20年 | 1丁目住人のブログ

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伊勢の式年遷宮に取材陣としてまぎれ、この目でお祭りをみてきた。

内宮の遷御の際、全国から選ばれた3000人の特別奉拝者しかこの行事をみることができない。皇室をはじめ、現首相や政界や財界や芸能界からの人物がたくさん来ていた。

昼の儀は清らかで神々しいのだが、夜の儀である遷御は静かでとても幻想的であった。3000人が数十分間、無言で神様が旧宮から新宮へ移るのを見守る。1200年間続く、全く同じ行事をみていると、いつの時代に自分が存在しているのか、わからなくなってくる。混乱や錯綜のようなものではなく、心地の良いまどろみのようなものである。

これから新しい日本の20年間が始まる。伊勢神宮の遷御で何かが変わったように思える。

今回分かったことは日本古来の神道とは宗教ではなく、自然崇拝の日本古来の土着信仰であるということだ。神という見えない、人智を超えた、something greatなものを尊び、敬う心を持っていさえすれば、受け入れられる場所なのである。他の宗教に入信していても問題ない。むしろ、神的なものを信じる存在がなくても、優しく抱かれる場所である。もちろん一神教のように、教典もないし、神や神の使者の定義も存在しない。

戦後の日本の教育で、この日本人の精神性の軸を作っていた宗教という危ないものというレッテルをはられ、蓋をされてきてしまった。なので、式年遷宮の意味さえ分からない人がほとんどであったが、今回の式年遷宮は日本人の多くの人の心に、何かが植え付けられたように思う。

20年前である前回の1993年の式年遷宮の時は、バブル崩壊後直後で、いまだ経済大国というもう心的に追い求めてきた幻想から抜けきれずにいた頃である。そして現在、失われた20年を経て、日本は、日本の独自性、つまりアイデンティティを求める体制に入った。

その中で、今回の式年遷宮という儀式は、国民ひとりひとりのアイデンティティを癒す、重要なターニングポイントであったように思う。これは西洋の概念である政教分離で使われるナショナリズムのような言葉ではなく、自分たちの”出生”や”家系図”のようなものである。

また、そこには、日本独自の出生の秘密だけでなく、人類にとって、普遍的な意味が込められていると感じた。それは、感性重視で自然感謝の、形に捕らわれず形のないものを朽ちさせない、真に持続可能な地球哲学のようなものだ。

本当に心から参加できて良かったと思う。おそらく、マスコミの中で僕のような立場で参加したのはただ一人であったように思う。「僕のような立場」とは、ふだんは資本市場や金融の世界というまったく離れた世界で働いていて、式年遷宮にマスコミとして入った人間のことである。招待をされて奉拝席で遷御を見守った人達はすでに団塊以上の人々がほとんどで、たとえば20代の若い人たちは皆無である。

この感覚は、他人に話すことはいくらでもできるが、究極的には、味わった僕にしかわからないことであると思う。特別な立場をもらったことを自覚して、世のために還元してゆきたいと、かなりまじめに思っているのである。