地区補助金事業・お茶事体験を前に「美術商から見た茶道具」と題し、お話
をさせて頂きます。まず美術商についてお話をさせて頂きます。
美術商(アートディーラー・Art Dealer)とは、美術品を仕入れ、コレクタ
ーなどの顧客に販売する業者のことです。どこから仕入れるかといいますと、
作家さんや、一般の美術収集家(コレクター)から買い取ったり、オークション
などで落札してものを集める訳です。昔は「骨董屋」とよく呼ばれました。「
骨董」とは「希少価値のある古美術や古道具」という意味ですが、「古くて役
に立たないものや人」の隠語にもなっておりますので、私はこの職種を「骨董
屋」と呼ばれるのが嫌で、自分では「美術商」「茶道具商」と言っています。
美術商の歴史は古く、米問屋、廻船問屋などの豪商はえてして両替商、質屋
などの業務もしており、その商品として舶来品や骨董、調度品をはじめ武具刀
剣などを扱っておりました。美術品に特化し商う美術商の歴史は安土桃山時代
といわれております。これは茶道の流行と関係していると思います。
残念なことに、皆さんの骨董屋に対するイメージは「一休さんの桔梗屋さん
」を思い出して頂くとお判りいただきやすいですが、歯がぬけていて目はギロ
っとした強欲で、たびたびアクドイ商売をしては善人からもお金を巻き上げる
アコギな商人というのが一般的です。恥ずかしいことに、いまだそういったお
店があることも事実です。また贋物を販売したり売ったものに一切責任をとら
なかったりする、ネット販売業者や訪問買取販売業者、点々とお店を変え移転
先の不明になる短期間画廊の増加も問題になっています。
皆さんには私のような真面目なちゃんとした業者とお付き合いなさられるこ
とをお勧めいたします。
ひとえに美術商といいますが、専門は細かく分かれております。
画商、茶道具商、鑑賞陶器、金石、武具刀剣、仏教美術など各専門分野に分か
れます。またそれぞれの分野も、国や地域、時代や形態により細分化されます

例えば応接間に飾る壺を考えてみます。壺は鑑賞陶器ですが、その中の西洋
骨董、中国陶器、朝鮮陶磁なのか、または日本陶磁の備前なのか、信楽なのか
、九谷なのかなどの産地による区分と、日本では縄文から江戸期までの古美術
、魯山人や陶陽など近代美術、現存作家の新美術、デフォルメされた現代アー
トなどに分かれるわけです。そして、それぞれに専門家がいるというわけです

そのため美術商のほとんどは、オーナーの美術品に対する判断や嗜好、また
顧客に対するオーナーの個性という要素が大変大きくなるため、どんな有名店
でも小規模な業者が多く、オーナー1人の場合も少なくありません。この少な
い人数で、仕入、営業販売、経理のほか、茶会や展示会の企画運営、展示作業

、作家への指導やアドバイス、美術の調査、鑑定などの業務をすべて行ってい
ます。そこがデパートの美術部とは大きく違うところです。デパートで販売さ
れている古美術品、物故作家作品のほとんどが、我々のような美術商が仕入れ
た美術品を預かり販売するスタイルをとっています。
このような美術商が全国にたくさんとおられるわけですが、特に大きな5つ
の都市を美術5都とよび美術業界の中心的な役割を果たしております。それは

「首都・東京」「文化の中心・京都」「商人の町・大阪」「御三家筆頭尾張徳
川家のお膝元・名古屋」「幕末維新、太平洋戦争の戦火を2度免れた加賀100万
石・金沢」の5都です。その他に富山、神戸、岡山、松江などが続いておりま
す。
そう、岡山は美術界にとって意外と大きな都市の1つなんです。吉備の国か
らの文化が培った風土と作家の多さ。備前焼、虫明焼、長船の刀の産地であっ
たことは大きな要因になっていると思われます。
 さて「お茶」のおはなしですが、皆様のご承知の通り、鎌倉に幕府が開かれ
る前年に岡山出身の栄西禅師が南宋よりお茶の種を持ち帰られました。
以来、喫茶の風習が広まりましたが、最初は寺院斎宴での儀礼茶としてお茶
を喫すわけですから茶道具は中国から渡ってきた美しい仏具として取り扱われ
ていたと思われます。
 室町時代末期には日明貿易で莫大な財を成した堺の商人たちは中国、韓国、
琉球などの珍しい舶来品を使って茶会を催します。そこに現れたのが千利休で
す。舶来品の唐物を使って茶会をする今井宗久や津田宗及は今の世の中の人で
言えばビルゲイツや孫さんのような大金持ちです。片や利休は堺の商人とは言
え、魚の干物問屋、とても高価な唐物を持つことは出来ません。そこで利休は
苦肉の策としてお金のかからないように、それでいて宗久たちをも楽しませる
ため、茶室や道具はもとより精神に至るまで創意工夫を重ねて洗練させていく
うち、茶道を完成させました。この利休のかかげる精神性のある茶の湯は信長
や秀吉など権力者をはじめ多くの人に支持され、また後世の豪商や財閥などの
数寄者に引き継がれていきます。
信長などは家臣に茶の湯を禁じ、のちに手柄をあげた褒美に茶道具を与え、茶
会を許したといわれます。一つの茶道具が一国一城と同格になったわけですが
、、、ではなぜ「茶の湯」がこれほどまでに評価されたのでしょう。
 私自身、茶会に呼んだり呼ばれたりした折に、ものすごく幸せを感じる時が
あります。それは一会の茶会を「どういったテーマで、何を使って、どのよう
に進行し、お客さんをどう楽しませるか」といった「おもてなし」の創意工夫
に、主客共に共感できた時です。この価値観の共感を得た時、人は孤独ではな
くなるのだと思います。年齢も育った環境も立場も財力も違う二人が同じ考え

をしているだと知るわけです。まるで、知らずに生き別れていた双子の兄弟に
出会えたような感覚です。この幸福感は何物にも代えがたいく、麻薬中毒のよ
うに、また次のそうした体験を求めるのです。
それは、茶道具に対する美意識の共有にも言えます。だからこそ茶人や数寄
者は、茶道具をこれほどまでに愛し、沢山収集するのだと思います。
 私ども美術商は商品である美術品を通して、そのような幸せをお客様から絶
えず頂戴しながら、尚且つ御代金まで頂戴できるという大変幸せな職業なので
す。
 さて、大正の初めから昭和15年頃にかけ、そんな美術業界に大入札期がおと
ずれました。隆盛を極めた財閥や実業家たちは、旧公家や旧大名家が放出する
美術工芸品や茶道具を旺盛に収集し、またそれらを使い茶会を頻繁に催しまし
た。写真と印刷技術の向上で、売り立て品一点一点を写真に収め目録とし、全
国の美術商を介し有力者に配られました。今の通信販売のはしりです。これが
大当たりしたのです。全国の旧大名、寺院、豪商、財閥が財務整理や集め過ぎ
た美術品の整理に、また投資した美術品の効率的売却方法として大入札を企画
していくのです。
明治の終わりから催された大入札は、日米開戦前後の昭和16年に数を減らすま
で、全国で大小合わせ3000回はあったであろうと思われます。その間に作られ
た売立入札目録は確認されているだけで2000冊以上あるといわれています。
目録には当初、どういった家の美術品をいつ何処で誰の紹介により入札を開
催されるのか、どんなものが売立てられるのかが文字だけで明記していました
が、購買意欲を高めるため、目玉商品の写真を掲載していくようになりました
。徐々に写真は増えていき、目録本の装丁は豪華になっていきます。サイズも
2段階に大きくなり、あたかも美術図鑑の体をなしてきます。
目録を紹介いたします。


大正7年10月21日 於、東京美術倶楽部  水戸徳川侯爵家御蔵器入札

昭和7年2月11日、於、大阪美術倶楽部  原尚庵氏所蔵品入札目録
原尚庵の本名は原弥兵衛。舶来織物商を営む、関西の財界数寄者の集まりであ
る篠園会の会員。藪内流の茶人として名高く、南禅寺の庭を所有していた。
昭和9年にも第二回入札会をおこなっている。
昭和10年6月9日、於、大阪美術倶楽部  竹軒贓品展観図録
総売上額約1,590,000円を記録。

横江竹軒の本名は横江萬治郎。京都生まれの財界人。江戸時代以来、横江家は
三井家に別家として仕えた家柄で、萬次郎も壮年期まで三井に勤務していたが
退職後、北浜で株式投資家として活躍する一方、その資金を以て文人画や煎茶
道具などを主体とするコレクションを形成した。
大阪における煎茶文化の興隆に大きな役割を果たした人物。

今日は沢山ある目録の中から河田会長の狸庵文庫美術館が所蔵する作品が掲載
されているものを選びました。
実際に載っているものをご覧いただきながら私の話を終わりたいと思います。
御清聴、有難うございました。