卓話 2019.6.14 「オリンピックの舞台裏」

リオデジャネイロオリンピック馬術日本代表 

原 田   喜 市   様

【ご紹介】リオデジャネイロオリンピック馬術日本代表として大活躍

なさった原田選手。馬術選手を目指したいきさつ、岡山県の選手とな

り真庭市に定住なさった経緯、そして、私たちの知らないオリンピック

の舞台裏についてお話しいただきます。      

(国民体育大会優勝7 回。2015 年全日本馬場馬術選手権優勝。2016 年リオデジャネイロオリンピック出場。 

2018 年世界馬術選手権出場。現在、東京オリンピック出場を目指しておられます)

 

≪略歴≫

1972 山形市で乗馬クラブを経営する両親のもとに生まれる。幼少期から馬に親しんだ

 85 山形市・滝山小から山形六中に進学.馬術のほか剣道やスキーにも取り組んだ

 89 国体デビュー.北海道国体少年標準障害飛越で準優勝する

 90 大阪・杉谷クラブに就職し、五輪3大会出場の杉谷昌保氏に師事する

 99 岡山県佐伯町(現和気町)の乗馬クラブ「森の馬小屋」に移籍

2000 杉谷クの職員だった喜子さんと結婚する

 02 全日本総合馬術ノービスレベル優勝.この頃からロサンゼルス五輪代表の中俣修氏に馬場馬術を学ぶ

 04 埼玉国体に岡山県代表として出場し、成年男子セントジョージ賞典(規定演技)で国体初優勝を飾る 

 05 岡山国体で規定、自由演技の2種目制覇゜

国体は翌年の兵庫でも2冠に輝き、規定は07年秋田までの4連覇に加え、09年新潟でも優勝した

07 蒜山ホースパークを指定管理する株式会社を設立

15 全日本馬場馬術選手権で優勝

16 リオデジャネイロ五輪に出場.10月の岩手国体では県選手団の旗手を初めて務める

 

【卓話】

今日はお招きいただきありがとうございます。リオデジャネイロオリンピック日本代表の原田喜市です。私は現在真庭市に住んでおります。今日は岡山に来た経緯やオリンピックの舞台裏などについてお話します。新聞には載せられない思い出なども話してみたいと思います。

私は現在46才ですが、出身は山形県山形市です。実家が乗馬クラブをやっておりその中で育ちましたので、近所のお店に買い物に行くにも馬にまたがって行っておりました。馬術の選手としては高校の馬術部に推薦で入れてもらったことが始まりです。乗馬ではこの高校時代に北海道国体の少年の部で準優勝します。しかしこのままこの場所で練習していいのだろうかと思っているときに、オリンピック選手をたくさん輩出している杉谷乗馬クラブ(大阪)の杉谷昌保先生から「俺の弟子になれ」との誘いを受け、高校を中退し、ポケットに10万円と一週間分の着替えだけを持っ大阪に行きました。そこで約10年ハードなトレーニングを積みました。たまたま岡山で国体が開催されるということで「国体の優勝請負人として来ないか」という話で岡山に来ました。何も縁のない岡山でありましたが、いい馬が一頭いて「その馬に乗りたい」という気持ちもあり岡山に来たという事情もあります。岡山国体の強化選手に入り鍛えられました。岡山国体の前年(2004年)の埼玉国体に出場し初めて優勝することができました。表彰台に上がった時には恥ずかしながら震えました。岡山国体では規定、自由演技ともに優勝という2冠を達成しました。それからは連覇、連覇と続けまして、国体優勝を7回成し遂げることができました。

 

岡山国体が終わったら「更にうまくなりたい」と思い、しばらくドイツでの鍛錬を行ってきました。

 

ドイツから帰って来たらたまたまビジネスのチャンスが巡ってきました。蒜山にある岡山国体の競技場跡地を誰も経営する者がいないということで私の方に話が回ってきました。それを引き受け乗馬クラブとしての充実を図かり今は80頭ぐらいの馬を抱えて経営しております。真庭市蒜山一帯は馬の住まいには水と草に恵まれ、環境として適したところです。海外を見まわしても決して引けを取らない素晴らしい環境だと思います。また施設も良くなっており、多くの選手たちがこの施設を拠点に活躍し始めております。

次にリオのオリンピックの話をします。オリンピックは本当に特別な場所だったなと今も思います。「夢のまた夢の舞台」、なかなか手の届く場所ではないと思っておりましたが、リオのオリンピックにここに同席されている中田昌子会員の娘さんの中田晴香さんがお持ちのエジスター(馬)と一緒に行ってきました。どういうことかといますと中田晴香さんがお持ちの馬に乗ってオリンピックに出場したということです。2014年に晴香さんと一緒にドイツに馬を買いに行き、二人で60頭の馬に乗り確かめました。このエジスターに会った時に私はあまり気が乗らず「これはダメ」と思いましたが、晴香さんは「この馬がいい」と一目ぼれされたようです。帰国後、私は「再起不能」といわれるような大けがをして入院しました。その時に晴香さんはご両親に泣きつきこの馬を契約され、エジスターは日本に来ました。私がけがから奇跡的に復帰し、この馬に再度乗馬して改めて「素晴らしい馬」と分かり、それからはエジスターとのコンビでとんとん拍子でオリンピックまで辿り着くことができました。世界でオリンピックに出れる馬は60頭しかいませんが、この馬は、“スーパーホース”になったのです。改めて晴香さんの“馬を見る目”のすばらしさに感謝します。

 

オリンピックもテレビで見ると素晴らしい画面ばかりですが現実にはいろいろありました。まず開会式では会場に入るのに7時間もかかりました。世界中の選手が並んで待っており、カラフルなユニフォームを着ております。開会式の会場は真ん中が空いており、激しい音と共に打ち上げられる花火がみえます。各国の選手はそれぞれ携帯で撮影していますが、日本の選手団は携帯撮影することもなく行儀良く整列し入場しました。これは橋本聖子団長から「あなた方はスポーツ界の頂点に立っておられます。ここは究極の舞台です。究極の舞台を美しく楽しんでください。」という話があり、みんなが素直に従ったところであります。日本人の入場は素晴らしかったと後から皆さんから誉めていただきました。

 

オリンピックの選手村に入っても驚くことが一杯ありました。何よりも周りは“スーパーアスリート”の集まりであります。あちらこちらに有名な選手が見え、ウサインボルト選手もいました。

 

オリンピックには「魔物がいる」とも言いますし、一回出ると「燃え尽きてしまう」とも言われています。出場後1年目は廃人みたいになっちゃうんです。2年目当りから気がつき、徐々にモチベーションを取り戻す。それから強化を重ねるというように大変です。オリンピックが4年に1回しかない意味はそこにあるのかなとも思います。

 

リオのオリンピックは環境的にはかなりひどいこともありました。オリンピック会場周辺の交通事情はひどいものでした。スラム街も残り日本人が近づくのは危険でした。選手村の部屋でも給湯器が配管もされずに置いてあり“お湯が出ない”など、ひどい状況もありました。

今度の東京オリンピックには「食事が美味しい」、「環境が良い」などいろいろな点で世界から期待されております。世界中の人々が日本に集まる大きなお祭です。私も“中年の星”として出場したいと思っております。皆さんの応援を是非ともお願いいたします。

以上ありがとうございました。

【愛馬・秘話】山陽新聞(2019.5.28)より

 「歴代の相棒”には数々の名馬がいる。中でも05年岡山国体に向け、県が購入したグァデループとは、競技人生の転機となった地元国体での2冠を含む7度の国体優勝を飾った。隆々とした馬体はパワーがあふれ、乗りこなすことをやりがいにしているうちに、馬場馬術にのめり込むきっかけをくれた。

14年にドイツで出会ったエジスターに「一目ぼれした」のは実は、国体表彰台の経験のある教え子の中田晴香(25)だった。原田は魅力を感じず購入を保留して帰国した直後、あの大けがに見舞われる。入院中に、中田は相談もなく契約を済ませていた。ところが、原田が退院後に騎乗してみると、抜群に相性が合う。中田は「私はいまだに乗りこなせないけど、海外ではオリンピックホースのオーナーとして評価され、それだけで光栄」と笑う。」

{ビックリ}この中田晴香さんは当クラブ中田昌子会員のお嬢さんでした!