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全 て の 者 の 心 を 知 る キ リ ス ト !
イエスが、過超しの祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、
イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。
しかし、イエスは、ご自分を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。
ヨハネ福音書2章23節から25節
今日のお話しは、「宮きよめ」後、祭りが国中で祝われていたとき、イエスがどの様な思いでおられたのかを書いています。
さて、あなたは、孤独というものは、人里離れた山奥や孤島などにあると思われていませんか。
孤独は、人と人の間に存在するものなので、人のいない所より、人がいる関係の中でより強く感じるものです。
あなたは、今孤独の中にいますか。それを感じていますか。その孤独は自身について考えるときとなっていますか。
イエスが、心に感じられていた思いは「孤独」と言うより「孤絶」と言った方がいいのかもしれません。「孤絶」というのは、自らの意志で選ぶと云うより、周りが作り出す壁と言えるでしょう。
イエスは、救い主であることのしるしを見せよと迫るユダヤ当局者らに対して、「この神殿を壊してみせよ、わたしはそれを三日で建てよう。」と言います。
これは、ご自身の内に起こされる死と、その死から三日後によみがえるということを指して言ったものでした。
あなたは、自分の話しを聞いて理解する気のない人に、何かを言おうとおもわれますか。おそらく、その気持ちは起こらないと思います。
いくら万の言葉を尽くしても、分かろうとしない者が聞いて分かることはありません。自分に対して心が開かれている人に、聴こうとする人に話すでしょう。
愛とは、相手の話しを聞いて知ることから始まります。そのときに大切なことは、話し手と聞き手の互いの間に信頼があるかが大切です。
昔、ある特殊な能力を持った青年を主人公にした映画、なんというタイトルだったか覚えておりませんが…。
その青年には、全ての人の心にある声が聞こえるというものです。醜い数々の言葉が青年に聞こえ、苦しめます。
青年の特殊能力は、彼を育てた祖母しか知らないことでした。青年はおばあちゃんに「どうして自分には、こんな変な能力があるのか。」と泣きながら絶叫します。
私たち普通に生活している人間にも、イエスやこの青年の様に人の中にあるものが分かる瞬間がないでしょうか。
そんな、あなたを救えるのは、偽りのない「愛」だけなのです。
いつも、このつたないブログを読んでくださったり、アクセスしてくださる方、またフォロワーの皆さん、心より感謝します。ありがとうございます。
い つ も と 違 う 散 歩 場 所 !
いつもは、母さんの車で
どこかにどこかにどこかに行ったりしますが
今日は父さんの車
どこへ行くのだろう!
さあ、着きました
いつもと違う公園散歩
楽しみです
見晴らしも良く
ごきげんなゆい、ノリノリです
楽しい時間も終わり
帰って、ゴハンです
では、また!
キ リ ス ト が ま ず エ ル サ レ ム で
始 め た こ と !
ユダヤ人の過越しの祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散し、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。
「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。
そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。
それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。
ヨハネ福音書2章13節から22節
今回の話をする前に、少し前回の話しにふれます。
カナの婚礼の時の奇跡は、限定的な方々に現わしたものでした。
婚礼の奇跡のあと、イエスの家族と弟子たちはカペナウムに下り、数日の間そこにおとあります。おそらく、そこで話された内容は、
ご自分が旧約聖書に約束された救い主キリストであることと、これから後、公けに救済の活動を始めるということだったのではと推測されます。
さて、ここは、「宮きよめ」と呼ばれているものです。 イエスは、カペナウムからエルサレムに上られエルサレムの中心である神殿から、救い主キリストとしての救済活動を始められました。
なぜ、イエスは神殿をきよめることから始めたのでしょう。それは、その場所が父なる主を礼拝し、祈るための神聖な場所だったからです。
神殿は、人間のエゴと利害の欲の絡み合う商売の場となっていました。当然、その有様を見た父なる主の子イエスは、怒りもあらわに、商売人の一切を神殿から追い出します。
当時、神殿は、祭司の庭、ユダヤ人の庭、婦人の庭、これらの外側に異邦人の庭があったとされており、商売の場は、異邦人の庭でした。
神殿で礼拝を献げるには、動物の供物やお金を献げることが必要で、ローマの通貨ではなく、イスラエルの通貨に替えて献げなければなりませんでした。
人々は罪の身代わりとして動物の血の犠牲を捧げ、自分や家族のとりなしの祈りを祭司が行っていたのです。
神殿を管理していたのは、サドカイ派(サドカイ人とも言い、主に祭司の人々で構成されていた。)に帰属している人々です。
神殿で商売をしている人や両替人は、このサドカイ派の人々の了解を得て、それぞれの商売をしていました。サドカイ人は人々から上前をはねて利益を得ていました。
イエスが怒られたのは、その様な構造も含め、父なる主を敬い畏れることもない彼らの欲に支配された行為でした。
これは、後に出てきますが、彼らが本当に信じているのは、主なる神ではなく、マモン神(実態は拝金主義)だと主イエスから糾弾される場面が出てきます。
間違うことや過ちが、本質的な問題ではありません。誤ったとき、間違ったときにどの様な態度をとるかが問題なのです。
イエスは、後に彼らの腐敗していた信仰の実態を白日のもと明らかにしてゆきます。しかし、みなが腐敗していたわけではありません。
次の#17では、その様な人の一人がイエスのもとを訪ねてきます。
神殿をイエスがきよめる行為は、本当に信じているものは何かを問うものでます。
人間は、心に満ちているものにより動かされます。
あなたは、何により動かされていますか。良いものであることを願いつつ。









