ゆいの幸せ時間!



   幸せのとき



  あ〜〜ぁ!気持ちいい し あ わ せ



  ゴロゴロとブラッシングはゆいのだいすき

       な時間です!


  イエスの持つもう一つの面について

 

それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。

イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。

ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。

すると、イエスは母に言われた。「そのことで、わたしとあなたは何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」

母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」

さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。

イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。

イエスは彼らに言われた。

「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きない。」彼らは持って行った。

宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。

それがどこから来たのか知らなかったので、―――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。―――彼は、花婿を呼んで、言った。

「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになる

と、悪いものを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」

イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。

その後、イエスは母や兄弟たちや弟子たちといっしょに、カペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。

       ヨハネ福音書2章1節~12節

 

今回は、ヨハネ福音書が示すイエスによる最初の奇跡についての話しです。

イエスは何を伝えているのでしょうか。

 

それは、結論から言いますと二つあります。

一つは、大工ヨセフの子イエスが神の子キリストであること。


もう一つは、律法を完全に守ることによる救済から、イエスを信じることによる救済の到来ということです。

 

この回では、前者の意味について書くことにして、後者の意味は#14に載せたいと思います。

 

さて、あなたは読んで、科学の発達した今の時代に奇跡はナンセンスだと思われたでしょうか。

 

私は科学が、昔から大好きで物理学や生命科学、テクノロジーなどや、そういう系統の本を読んでいます。

 

ある科学の本には、同時並行する異世界が存在することや原因の無いまま存在する極小の粒子のあること、反物質、暗黒物質なるものの存在が書かれています。

 

さて、あなたは現実に対して出来る手立てが何も無くなったその時、奇跡というものを無意識にも求めてしまうことはないですか。

 

祈りなどしたことのない人が、親しい人が生死に関わった時に、願うというより祈るという方が近いなどということがあると思います。

 

奇跡を信じるか、信じないかを少し横に置いて、先ほどの二つの内の一つ、イエスがキリストであることについて考えを巡らせてみましょう。

 

大工ヨセフの子としてイエスは、ずっと家族の生活を支えてきました。


神の子だからということで、奇跡で家族を養しなったわけではありません。

 

額に汗して大工の働きをして少なくとも7名はいたであろう家族の大黒柱として生活をいとなみました。

 

しかし、それは事実ですが、イエスの一面です。

他方、救い主キリストとしての面を持っていました。

 

この奇跡を通して、イエスがキリストであることを示しています。

 

イエスは、母マリヤのことを「女の方」と呼び、母マリヤは息子であるイエスのことを「あの方」と呼んでいるのは、なぜでしょう。

 

二人は親子であるのに、不自然な会話をすると思われた方は、常識的で良識ある感覚を持った方です。

 

息子であるはずの存在を、あえて「あの方」と呼ぶのは、マリヤがイエスに対して別の面を感じたからです。

 

当時も、そして今もイエスは大工ヨセフの子であるという受け止め方だけをする人は相当数いると思います。

 

この理解の方向には、イエスは、ユダヤ教の新しい一派(現在キリスト教)を創設した者というものがあります。

 

しかし別の面、主なる神の子イエスはキリストであるという受け止め方は、キリスト教の創設者ではなく、新しいいのちを運んで来られた存在という理解があります。

 

私もそしてあなたも目に見えている一面だけを見て、こうだと決めつけられるのは好まないでしょう。

 

人間も、そしてイエスも多面的に見て理解した方が視野が広がり、世界がきっと素晴らしいものとなります。

 

もう一つの意味については、#14で述べます。

 

                        ゆいと散歩

 

 

 

                                                     いつもの散歩コース

                                                                             いつものように・・・・。

 

 

         家に帰ったら、足をふいて

                   食事です

 

 

            ゆいの朝と夕方の風景

      キ リ ス ト の 言 う 信 仰 と は ?

 

 

その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。

そして、ピリポを見つけて、

「わたしに従って来なさい。」と言われた。

ピリポは、ベッサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。

彼はナタナエルを見つけて言った。

「私たちはモーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に

会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」

ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」

ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」

イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。

「これこそ、ほんとうにイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」

ナタナエルはイエスに言った。「どうして。私をご存じなのですか。」

イエスは答えて言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」

ナタナエルは答えた。「先生、あなたは神の子

です。あなたはイスラエルの王です。」

イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。

あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」

そして言われた。「まことに。まことに、あなたがたに告げます。

天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

                                                                                              ヨハネ福音書1:43~51

 

今回の話しは、「信じる」という部分に焦点を当てています。

 

ナタナエルという者に対して初対面であるにも関わらず、「彼は、本当のイスラエル人であり、偽りがない。」と言っています。

 

これは、ナタナエルは真実な神の民だという意味が込められています。

 

一方、ナタナエルはイエスのことを非常にネガティブに見ます。

「ナザレから何の良いものが出るだろう…。」と。

 

この様な偏見は、現在にも多く見られます。

でも地方の寒村出身者に、偉人は多くおりますし、検索サイトで調べれば

寒村出身の偉人の数に驚かれるでしょう。

 

あなたも周りにいる人々からの様々な偏見に悩まれたことはないでしょうか。

 

ピリポは、ナタナエルの偏見的意見に対して「あなた自身の目で行って確かめなさい。」という意味を込めて、行ってみなさいと言います。

 

ピリポが言うように、私達もまた、真実は実際に自分の目で色々な面から検証し確かめて判断したいものです。(私のブログも)

 

ナタナエルは、イエスに元に来たとき「本当の真の神の民だ」と言われ、

また、「ピリポに呼ばれる前に、あなたはいちじくの木の下にいた。」

と言われます。

 

このイエスの言葉を聞いた、ナタナエルは、イエスのことを「あなたは神の子です。イスラエルの王です。」と告げます。

 

これに、イエスが喜んだのかと言うと、そうではありません。なぜでしょう。それは、イエスとナタナエルの間の信頼から生まれたものでないからです。

 

ナタナエルは、イエスが自分を見ていないのに、ピリポに会う前にいちじくの木の下にいた事実を言い当てるのを聞きました。

 

人間、不思議なことを見せられたり、事実を言い当てられたりすると、その人を信じたい気持ちになることがあります。

 

しかし、イエスは、不思議な力を自分に感じたから信じるのか?と問うのです。

イエスは、ナタナエルに信じることの真の意味を投げかけています。

 

それでは、イエスのいう信じるとは、一体どういう意味なのでしょう。

それは、「相互信頼」です。言い換えれば、互いに信じ合うということです。

 

宗教では、信じることを信仰と呼びます。人間が、自分よりも大きな何か超越的な存在に対して、何かを祈願したり、守りを信じたりすることを指します。

 

イエスの言う信じるとは、もちろんそういう事も含むのですが、

その本質は、互いに信じ合うことにあるのです。

 

信じるとは、ただ小いさな者が、大きな存在に対し一方的に抱く思いでは

ないのです。

 

弟子たちは、イエスが十字架にかかる直前、信頼(信じていること)を捨て全員が裏切りました。

それでも、イエスはキリスト(救い主)として弟子を赦し愛します。

 

イエスは、再び弟子たちに問いかけます。

「あなたは、わたしを愛しますか。わたしがあなたを愛していることを信じますか。」と。

 

 

 

ゆいとコスモスの花鑑賞!

  花より別の何かに関心があるようです


  やって来ました 読谷村

      コスモスの花畑で集合写真

花を鑑賞していたら

       そこに知り合いとワンコたちが


三匹のワンコたちは同じ方向を見ています

       ワンコやニャンコに人気の・・・

チュール、チュール、チャンチュール あのオヤツ


さぁ

   帰ろう  オ ウ チ に!


      お花畑よ さよなら👋