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祝 福 の 上 に 祝 福 を
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた。
ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。
「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』
と私が言ったのは、この方のことです。
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上に恵みを受けた受けた
のである。
というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリスト
によって実現したからである。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、
神を説き明かされたのである。
ヨハネ福音書1章14節から18節
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」
ヨハネ福音書は、あまりにも大胆な言葉で始まります。
神が、人となって来られた。これは理屈ではなく、驚きと感動をもって語るべき出来事です。
ヨハネが「私たちは栄光を見た」と二度も語るのは、その信じ難い現実への賛美にほかなりません。
イエス・キリストは、父なる主からこの世界に遣わされ、ナザレで育ったゆえに「ナザレのイエス」と呼ばれました。
しかし「キリスト」とは名字ではありません。「油注がれた者」「救い主」という意味です。そして、イエスの本質は、「わたしはある。」という存在です。
イエスはキリスト教の開祖ではなく、最初から存在しておられた方なのです。
私たちは皆、この方の満ち満ちた豊かさの中から、「恵みの上に、さらに恵み」を受けています。
それは条件付きの恵みではありません。守れなければ呪われる、祟られる、そうした恐れから来る信仰とは、まったく異なります。
日本には、決まり事を破ると祟りが起こる、という考えが今も残っています。
しかし、心から敬っているのに罰を与える存在が、本当に人の幸福を願う神でしょうか。
著者は牧師として、また一人の人間として、そこに大きな疑問を覚えます。
神を畏れ敬うことと、恐れて従うことの間には、天と地ほどの違いがあります。
キリストにおいて示された神は、呪いではなく祝福を与える方です。
どうか、この世界に差し出された最大の贈り物を、心をもって受け取ってください。恵みは、すでにあなたの前に置かれているのです。
ち ょ っ と 寄 り 道 Vol.1
今回は、寄り道をさせていただきます。
#2で主なる神(これ以降主または、主なる神と表記します。)と書きましたが、
ここでその理由を説明します。
神という用語を使うことに対して、私はかなりの抵抗を持っています。
と言いますのは、近年は特に、この「神」という言葉は巷に、あふれ返って使われているからです。
例えば、神対応・神回・サッカーの神様・野球の神様・○○の神様・○○神など挙げればきりがありません。
ユーチューブを覗けば、祟り神・呪い神など色々な名前の神様で、ごった返しの状態です。
今に始まったことではなく昔から日本はそうですと言われれば、それまでですが。
聖書に出てくる「主」というお方は、その様なものではないとお伝えしておきます。
私見ですが、神という言葉は、人間の都合上作り出した人間を中心にした概念だと考えています。
そして、その実態は人間の欲望です。
地域・時代・民族・人種・言語・コミュニティーの習慣やしきたりなどに限定されて個々の名前を所有した人間以上の存在だと考えらている様に思います。
これらの神々の多くは、その神を信じる者の利益を優先する利己的な面を持っています。
だから、それぞれ名前を持つ神同士の利害を反したり異なったりすると、すぐに戦争や争いに発展します。
非常にエゴエステックな部分があります。
もちろん、著者の信じているキリスト教も同様です。同じキリスト教同士の国が、同じ神の名のもと争い、国の覇権を競ってきました。
同じ名前でも、そこにある神の持っている意味が違っているからでしょう。
信仰を持たない方は、単純に思われるでしょう。どうして同じ神を信じているのに?
信仰や宗教は、元々人類の幸福を願ってあるのではないの?
その通りだと思います。正しい答えです。では、なぜそのようなことが起こるのでしょうか?
先ほど、言ったように神とは人間が自分たち
の利害のために作り出した時代的かつ地域的存在の概念だからです。
もちろん、聖書の中にも神という言葉は出てきます。聖書は旧約聖書と新約聖書から成っています。
旧約は、主なる神あるいは神なる主と訳されていますが、新約は神と訳されています。
私はどちらとも天主と中国語の聖書にあるように訳せば良かったのにと思っています。
聖書が「主」という方を紹介するのに、私たちの世界にない言葉や概念を使っても、私たちには認識できません。
そこで、人間以上の存在としてあった言葉「神」という用語を使ったのです。
それでは、主とはどういう意味を持つ言葉なのでしょう。
「主」とは聖書の中では、モーセという人物に主自身が、教えました。
主は(へブル語)で「ヤーウェ」と言い、意味は「わたしはある」というものです。
この「わたしはある」という意味については非常に多義的な意味があり、
けっしてこれだという一義的なものではありません。
私が思う意味の一面は、「意思を持った無限の広がりを有した存在」
または、「すべての存在の存在」というのも可能だと思います。
昔、よく誰も見てなくても見ている方がいるよ!あるいは、姿形はなく、何者かは分らないけれど、存在してる方がいるよ、と聞かされていました。
色々と宗教はあっても、もとをたどれば一つに行き着く何か。それが主だと私は思っています。
「意思を持った無限の広がりを有した存在」は、
無限ですので時代や地域的なもの、民族的な諸々のものを超えます。
そういう理由で、できるだけ神という語の前に、主という言葉をおいて使います。
主とは、その意味からするなら、普通名詞でもなく固有名詞でもないのです。
名前も持たない、姿なき至高の存在であり、全てのものを存在すべく創られた存在です。
さらに、主の深いところを語るには、もっと字数を要するので、また機会を別に設けたいと思います。










