
午後、福山から帰ってきたときにはまだ2時半だったので、
広島駅で花を買い、駅前からバスに乗って舅姑の墓参りに行き、
またバスで市街地まで戻ってきて、今度は頼山陽史跡資料館に行った。
私にまとまった自由時間があることは最近は稀なので、
もう行けるところはこの際、全部行っておこうと思ったのだ(汗)。
福山の平田玉蘊はきょうが最終日だったが、
こちらの田能村竹田だって、あと何日かで展示期間が終わりだった。
きょうを逃したら、私はもう見ることができないと思われた。
『風流才子』は晩唐の詩人・杜牧の人生を表現するのによく使われる言葉だが、
頼山陽と田能村竹田はいずれも、経世の論を説いた思想家でありつつ、
風雅な詩作・南宗画の世界に遊んだ文化人でもあったという点で、
杜牧の生き方に通じるものがあった、
――というのが今回の展示の切り口だった。
杜牧、……漢詩の会で随分習った覚えがあるのだが、
咄嗟に思い出せるのは『江南の春』くらいしかなかった(大汗)。
まだまだ勉強が足りません。
山陽と竹田が、才を認め合った友人同士だったことは
著名な評伝や随筆等でもよく取り上げられていることだが、
今回の展示で、両者の意気投合ぶりがいっそうよくわかった。
ふたりはともに旅をしたり、共作をしたり、
詩や画の作品を見せ合い、批評し合ったりして、
互いを尊重し影響を与え合う交際を、長年に渡って続けた。
山陽のもうひとりの親友・浦上春琴とも、皆で活発に交流し見聞を広めた。
また、橋本竹下や亀山夢研といった、パトロン的な文化人たちが
彼らと親交を結び、交遊を重ねる中で彼らを支援した様子についても、
私はこのたび、いくつかの書画を通じて、ほぼ初めて理解することができた。
例えば、竹田の筆による『尾道舟遊図』で舟に乗っている三人は、
竹田と竹下と夢研であろう、と解説に書かれていた。
これを見ているうちに、私は、もし、なれるものなら
夢研みたいな人間になりたいものだ、としみじみ思った。
自分自身にも多少の嗜(たしな)みや心得があったうえで、
表現者を目指すのではなく、むしろ後援者となって、
幾多の才能の交流の中心にあって彼らを眺めている、
というのが私の思い描く究極の理想だ(殴)。
私は道楽者の極みとして、自分の審美眼によって才能を見いだし、
それを愛でることに、すべてを費やしたい。
自分自身が作り手として称賛されるよりも、
才能と才能を引き合わせるコーディネーターとなることにこそ、
私は必ずや、大いなる喜びを見いだすだろう。
……しかし勿論それには、何より先立つものが必要だ。
まず舟遊びの舟を手配するのが、パトロンの役割だからして。