3D版はもう地元ではどこもやっていなかったが、
2D版を上映している映画館があったので、行って来た。
ようやく、観ることができた。
華麗なるギャツビー(公式サイト)
日本の、それもかなり田舎で育った私にしてみれば、
ジャズ・エイジもアメリカン・ドリームも遠い世界の話で、
自分のルーツをどこまで振り返っても接点など全くないのだが、
この小説は学生時代に強引に読まされたので、
原作の内容については、今もかなり記憶に残っていた。
それで、2013年に蘇ったギャツビーがどうなったかに興味を持ち、
今回の映画を観に行ったのだ。
ディカプリオがオジさんになっていた(爆)のに感心したが、
勿論、そういう年齢でないとギャツビーは演じられなかっただろう。
富も名声もある大人で、かつ、童顔の残るディカプリオの雰囲気は、
彼の演じるギャツビーの姿とぴったり重なるものだった。
彼は自分の幸福の象徴としてのデイジーを追い求め、
実際には愛するに値しないような女である彼女に、
最後には自分の命まで与えることになるのだが、
その愚かさこそが、ギャツビーの究極の魅力なのだと観ていて思った。
華麗なパーティーや豪奢な邸宅の、映像としての表現が、
この作品の大きな見どころであったと思うのだが、
私にとって最も印象に残ったのは、
ギャツビーがひとりで桟橋にたたずむ場面だった。
ギャツビーが豪邸を建てたのも、週末ごとに大規模なパーティを催したのも、
すべては、入り江の対岸に住むデイジーを迎え入れたいがためだった。
壮大なパーティーの、華やかなホストとして振る舞う一方で、
静かな夜には、ギャツビーはひとりになって邸宅の前の桟橋に出て、
愛しいデイジーの住む邸を遠く向こう岸に眺めて立ち尽くし、
前方の灯台から放たれる緑の灯に向かって手を伸ばすのだ。
Green light means "progress", in general, "You can go."
と、チャップマン先生が講義のときに仰ったのを私は覚えている。
前に進みなさい、諦めてはいけない、きっと幸福が手に入る、
……とギャツビーはずっと自分に対して確かめるような思いで
暮らして来たことが、絵としてとてもよく伝わった場面だった。
ときに、原作にある、葬儀にギャツビーの父親が登場する件を、
映画で割愛してしまったのはなぜだったのだろう。
ここで父親の明かす、少年時代のギャツビーの姿は、
彼のひたむきさと哀しさを強調するのにとても効果的だったのだが、
きょうの映画ではその場面は使われなかったのが、少し残念だった。
一方、宝塚歌劇のデイジーはギャツビーの墓に最後に花を手向けるが、
そういう中途半端なことをしに出てこなかった点については、
映画のデイジー(の自己愛)の徹底ぶりは良かったと思った。
原作のデイジーも、勿論、ギャツビーには花どころか、
お悔やみのひとつも寄越さない。
自分のすべてで愛した女性から、一顧だにされずに逝くことで、
彼の夢は、どこまでも夢として終わる、
……というのが虚像ギャツビーの終焉に最も相応しいと、私は思っている。