
頼山陽史跡資料館の平成24年度企画展
『菅茶山の文人ネットワーク――黄葉夕陽文庫を中心に――』
を、一昨日、ようやく見て来た。
例によって、展示期間の終盤ぎりぎりになってしまった(汗)。
菅茶山は江戸時代後期の儒学者・詩人で、
頼春水(頼山陽の父)・春風・杏坪の三兄弟と親交篤く、
脱藩事件を起こし廃嫡になった山陽が、一時期、身を寄せたのも、
この茶山の開いていた私塾だった。
頼山陽趣味の私としては、頼春水の珍しい楷書体の軸装作品
『新様楷書』を見ることが出来たのが、とりわけ感銘深かった。
今回のは1790年の作、中年期の春水の楷書ということで、
本当に貴重であったとともに、菅茶山からの書状への返礼として、
この書体を選んだ春水の心情は、いかなるものだったかと
様々に想像させられた。
ほかに、葛子琴の七言律詩や、岡本花亭 賛の『菅茶山肖像画』、
谷文晁が菅茶山の古稀を祝って贈った『磻渓跪餌図(はんけいきじず)』
(菅茶山を太公望に見立てたユーモラスな肖像画)、
山陽の恋人であった平田玉蘊の筆による『万歳図』などがあり、
私自身、名前や逸話を記憶している人達も数多く登場し、
大変興味深く観ることができた。
菅茶山は、学問によって世の中を良くしようとの理想を持ち、
貧富の差なく、志ある者は皆が学べるようにと
私塾を開いて教育活動に努め、差別のない世の中を願った人だった。
現在のように交通機関や通信手段が発達していたわけでなく、
書簡ひとつの往復にも日時のかかった時代に、
菅茶山の交友がこれほど各地に広がっていたのは驚くべきことで、
友人知人が彼を描き、彼のために贈った作品の数々からも、
その思想や実践に共鳴する人達が多かったことが感じられ、
この人の精力的な人生と、魅力的・社交的な人柄とが伺える気がした。
また、ここに記録されていなくとも、人生の一時期を菅茶山に学び、
それを糧に、地域や家族に貢献をして一生を過ごした無名の人達も、
きっと数多くあったことだろうと想像した。
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その関連で書いておこうと思うのだが、昨日はピアノの稽古帰りに、
前々から気になっていた『頼山陽 煎餅』のお店を訪ねてみた。

数年前、姑が天満町の病院にいた頃、私はよくこのあたりを歩いていて、
テレビ新広島『TSS味なプレゼント』で「むさし!土橋店!」と
宣伝していた『むさし』が、こんなところにあったかと知ったりしたのだが
(TSS味なプレゼント「むさし」(YouTube)→超ローカルな話題だ(^_^;)、
この、頼山陽煎餅本舗『藝陽堂』も、実は、その一角にある店なのだった。
頼山陽煎餅本舗 藝陽堂(食べログ 広島)
頼山陽像では最も有名な、大雅堂義亮の画をもとにした、
藝陽堂の『頼山陽先生画像』のしおりや、
『日本外史』を紹介したパンフレットなど、何点か頂いて来た。
頼山陽煎餅は、小麦粉と卵がベースになった甘い素焼きで、
強いて言うなら、神戸の瓦せんべい風の味わいだと思ったのだが、
堅焼きでもなく、風味のある柔らかい感触が、良い感じだった。
家に帰ってお茶を淹れて食べたら、なかなか美味くて、
うっかり完食してしまい、写真を撮り損なった(殴)。
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もうひとつ、最近の頼山陽関連の話題というと、これだろう。
頼山陽の詩碑再建へ募金訴え(中国新聞)
『江戸時代後期、儒学者頼山陽が訪れて漢詩を詠んだ大分県中津市の渓谷・耶馬渓(やばけい)で、山陽を顕彰する詩碑が7月の水害で流され、地元中津と広島の有志が再建に乗り出した。募金活動に協力を呼び掛けている。』『耶馬渓は奇岩が連なる景勝地。山陽は1818年の九州旅行で絶景に感動し、当時の地名「山国谷」にちなんで「耶馬渓」と名付けた。1960年代に地元製材業者が山陽を顕彰しようと高さ約7メートルの詩碑を建立。裏面に渓谷美を詠んだ山陽の漢詩を刻んでいた。』『川沿いにあった詩碑は7月の豪雨で流失した。住民が捜しても見つからず、小説「頼山陽」などがある作家見延典子さん(57)=広島市佐伯区=や、NPO法人中津地方文化研究所の近砂敦副所長(59)たちが再建を計画。約40人でグループ「燦々(さんさん)プロジェクト」を10月中旬に結成し、300万円を目標に募金活動を本格化させた。』『耶馬渓の石を使って来年12月の完成を目指している。広島では頼山陽史跡資料館(広島市中区)に募金箱を設置した。』
こういう活動は、特定の作品や地域に愛着を持つ人達で
力を合わせる以外には、なかなか実現が難しいことだと思う。
漢詩趣味から、頼山陽にご縁が出来たことなので、
私も継続的に、ささやかながら協力して行きたいと思っている。