大相撲春場所中止へ、八百長解明間に合わず(読売新聞)
親方衆が、文科省の保護下に「国技だ」とあぐらを掻き、
力士達が、タニマチに囲まれつつ「スポーツだ」と認識し、
彼らの上に閉鎖的な協会が君臨する、という三点セットが続いた結果、
大相撲は、いよいよ終わりを迎えようとしている。
相撲の本来の存在意義は神事だったのであり、社会的には興行に他ならないと、
言ってくれる人が、誰かこれまで内部にいなかったのかと思うのだが、
閉鎖性が強ければ、それだけ発想も硬直したものになるから、
やはりこの結果は、協会が自ら招いたものだと言うしかないのだろう。
前も書いたが(2008年10月17日、2010年06月22日)、
格闘技を観る者としての私自身は、大相撲が八百長でもそうでなくても、
いっこうに問題ではなかった。
勝負そのものに見応えがあり、面白ければ良かっただけだ。
『解明』なんぞは、そもそも、してくれなくて良かったのだ。
オリンピックじゃあるまいし、正々堂々のスポーツだから素晴らしい、
そうでなければ精神が穢れているから駄目、などと思ったことなど一度もなかった。
だいたい、大相撲に八百長アリ(かも)というのは、江戸時代には既に、
歌舞伎のネタになっていたくらい、皆が普通に考えていたことだった(爆)。
社会正義だかスポーツマンシップだか知らないが、
全然次元の違うものを持ち込んで大相撲を裁こうとする人たちがいるせいで、
あんなに楽しかった興行がひとつ、無惨につぶされてしまうんだなあ、
と思うと、正直、私は今とても不愉快だし、納得できない気分だ。
しかし私自身、昨今は既に相撲を観ることへの熱意がなくなっていたし、
昔のように見事な取り組みを見せてくれる力士も減った。
大相撲は、関係者が国技だと豪語しているだけであって、
既に興行としての内情さえ、伴わなくなっていたのだと思う。
かくなる上は、相撲は一旦このまま終了して、
しかるのちに、プロレスみたいなかたちで出直すしかないだろう。
「国技」だなどと言って、そのステイタスを誇ったりするから、
皆からとやかく言われるのであって、
アングル(やらせ・筋書き)あり、ギミック(キャラ設定)ありの、
プロによる肉体パフォーマンスであると認めて、日陰でやるのなら、
もう誰も文句は言わないだろう。
それでも支持があれば、大相撲にはまた別の未来が開けるだろうし、
大衆から見捨てられるなら、残念だが自然消滅で終わるほかない。
それにしても私は、やはり、昔の大相撲が純粋に楽しかった。
手に汗握るような名勝負の数々があったことは、私にとって真実だった。
あの頃だって、八百長かガチンコかと愉快に思いを巡らせることも時にはあったが、
いつも華やかに楽しむことのできた大相撲が、私は大好きだった。
ヤラセかガチか、その境界がありそうでなさそうでありそう(爆)、
なところさえも込みで、私は愛していたのだと思う。
これはガチか?ここはヤラセか?といちいち追求したがるような、
無粋な人たちがあの頃は居なかったから、胸躍るような夢が見られたのだ。
夢まで含めての興行であり、私達はそれに対してお金を払っていたのに。
一度、覆いを剥いでしまえば、もはや、あの世界は修復不可能だ。
あの素晴らしかった大相撲を、今後は二度と取り戻せなくなるのだと思うと、
正直なところ、惜しまれてならない。
追記:星の遣り取りはいろいろあったのだろう、とは薄々思うのだが、
大相撲で八百長がそれほどに力を持っていたのだとしたら、
日本人横綱や日本人スター力士を創り出すことも、いくらでも可能だった筈だ。
なのに、外国人横綱の活躍や外国人力士の優勝しかなかったところを見ると、
大相撲の基本は「ガチ」だったのではないか、というのが私の感触だ。
今更擁護するつもりはないし、勿論真相は知らないが(苦笑)。
外国人力士に上位を独占させ、観客動員を下げ続けたのまで「筋書き」なら、
大相撲は興行として「自殺」をはかったということになるのだろう。