頼山陽の母 | 転妻よしこの道楽日記

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漢詩の会に行くようになって、私は頼山陽の詩を知った
それ以前に、彼の名前だけは歴史で習ったことがあったし、
娘が中学受験をするときに塾で使っていた問題集の中にも、
『日本外史を著したのは誰か』などという問いが出ていた。
しかし頼山陽が私人としてどういう人であったかは
私はこの漢詩の会で習うまで、全く知らなかった。

頼山陽の漢詩は、反哺の孝のカラスもビックリの親孝行ぶりで、
特に母との旅路を描いた、マザコン三部作は圧巻だ
(『冑山歌』『侍輿歌』『送母路上短歌』)。
自分には見慣れた風景も、母には初めての場所だからと
母の問うことにひとつひとつ細やかに答え、
母の見るものすべてを自分も見なくてはと、母の視線を追う、山陽。
母を輿に乗せて、自分はその傍らを歩いての旅で、
疲労が甚だしくとも、願うのは母の旅の快適さだけ。
これって一体、何歳のときの話なのかというと、
最初の詩でも山陽は既に家庭持ちの四十歳、母は還暦、
最後の詩など『五十の児に七十の母あり』という組み合わせだ(汗)。

息子も息子だが母も母だ、と私はある意味、シビれてしまい、
頼山陽の母親とは、一体どのような女性だったのかとネットで検索した。
すると、山陽の母・静子というのは、和歌に長け、芝居好きで、
酒も煙草も嗜み、なんと84歳まで長生きした女性だったとわかった。
それで、そのうちなんとしても頼山陽史跡資料館に行ってみなくては、
縮景園ももう一度見直してみなくては、等々と思っていたところ、
先日、仮装ぴあにすと様から耳寄りな話を聞いた。
作家の見延典子氏が現在は広島在住となられ、
頼山陽を研究なさっていて関連の御著書も多い、というのだ。

見延典子氏と言ったらアナタ、私ら世代にとっては
『もう頬づえはつかない』、コレだ。
私は高校1年生のときこの小説を買って読んだのだが、
それまで興奮すると言ったらコバルトシリーズくらいだったので、
結構、本質的なところでショーゲキを受けましたね(苦笑)。
桃井かおり主演で映画化され、私はそれのテレビ放映も観た。

あの見延氏が広島に、しかもどうも我が家から
さほど遠くないところにお住まいで、
現在は頼山陽関連の小説や評伝を書いていらっしゃるなどとは
私にとってなんとも不思議な巡り合わせだった。
自分の人生が46歳のきょうまで続いていた御陰で、
ほとんど30年ぶりに『頬づえ――』の作者に巡り会い、
漢詩趣味の御陰で、頼山陽をキーとして繋がることになったのだ。
見延氏も漢詩も頼山陽も、私にとっては、それぞればらばらに出会い、
数十年を経て自分の中で接点を見出すなどとは、考えもしなかったのに、
本当に人生とは面白いものだなと、ささやかながら思った(笑)。

というわけで、買ったのが、写真の本だ。
頼山陽の母・梅颸 八十四年の生涯 すっぽらぽんのぽん
(見延典子 南々社 2000年)

今、半分ほど読んだところだが、大変面白い。
歴史小説ではなく日記評伝のかたちを取っているので、
梅颸(「ばいし」。「し」は、へんが「風」で、つくりが「思」。静子の雅号)
の書き残した文面がそのまま掲載され、夫の日記(『春水日記』)との比較もあり、
山陽本人が語ることのない側面からの、
様々の事情がわかるようになっている。
当時、女性として妻として母として生きた静子の人生を知るとともに、
山陽の、マザコン三部作への私の見方も、また違うものになりそうだ。


追記:読了して思ったことは、梅颸は必ずしも、
現代の我々が思うような次元での自由奔放な女性ではなかったということだ。
むしろ彼女の人生の大半は、家庭を守り夫の言に従い、子を育てるという
当時の女性としての分をよく守ったものだった。
未亡人となった後、彼女には長い後半生が偶然にもあったために、
旅に出たり、芝居見物をしたり、買い物や、酒や煙草を楽しんだり、
という日々も許されたが、その反面で、
長寿ゆえに、身内の死などの不幸にも次々と遭遇せねばならなかった。
実り多い晩年ではあったが、実に堪え忍ぶことの多い生涯だったと思う。