きょうが姑の一周忌だ。
ちょうど一年前の今朝、姑は特養の自分のベッドで、
職員さんが朝礼で離れた、ほんの僅かな空白のような時間に、
ふっと静かに息を引き取っていた。
姑の最期の瞬間は、そのように穏やかだったけれども、
そこに至るまでには、最初に病気の兆候が出始めて以来、
少なくとも8年ほどの闘病期間があった。
認知症もほぼ同時に進行したので、姑は自分の状態を憂えたり、
将来を悲観したりする心理状態にはならなかったと思われるが、
身体的な苦痛は、最後の何年間かは常にあったと思う。
でも、体が動かせなくても、熱があっても、痰が絡んでも、絶えず笑顔を見せ、
姑が泣いたり周囲に当たったりしたことは、ついぞ一度もなかった。
昨日は、我が家が檀家になっているお寺の若院さんに、
舅宅まで来て頂き、一周忌法要を家族三人で行った。
親戚の皆で賑やかに集まることも考えたが、
今、現実に出席して頂ける範囲の親戚のほぼ全員が舅の血縁で、
姑からいうと姻戚関係だけのつながりになってしまうし、
また舅の葬儀以来、このところ毎年のように法事が続いていて、
来られる方々にもご負担であろうことを考え、今回はご案内しなかった。
また何年かあとに、舅と姑のそれぞれの何回忌かの法要を
合わせて行うような機会を持てば良いのではないかと思っている。
若院さんは、お経をあげて下さったあと、
「母という字を手書きすると、傾いた字体になる。
父という字は左右のバランスが良く、全く傾いていないのに、
母だけが傾いているのは何故なのか、何を背負っているのか」
というお話をして下さった。
もちろん、正解のあるような問いかけではないのだが、
姑の人生を思ってみても、「母」であればこそ何かを背負い、
苦労を苦労とも言わず忍従した日々が確かにあったと思った。
その御陰で、舅の人生が成り立ち、主人と私達の今日もあったのだ。
娘が、話を聞きながら静かに泣いていた。