昨夜は、萩原朔美・著『死んだら何を書いてもいいわ
―母・萩原葉子との百八十六日』を読んだ。
私が萩原葉子を知ったのは、『蕁麻の家』を読んだときで、
自分が中学2年生だった記憶があるから1978年のことだと思う。
私は当時これを自分で買ったのではなく、母の本棚から失敬したのだが、
『蕁麻の家』は76年に出ているので、多分、母は、
話題作だというので出版されてすぐ買っていたのだろう。
詩人萩原朔太郎の長女として生まれた葉子は、8歳の時両親が離婚、
朔太郎の母の家で育てられるが、その日常は被虐待の連続であったようだ。
『蕁麻の家』は小説形式で、登場人物には皆、仮名が与えられてはいるが、
内容は自伝であり、萩原葉子の実体験を綴ったものと言われている。
著者が、当時一族で権勢をふるっていた祖母から心身を虐待され、
想像を超える挫折と屈折の少女時代を送った様子が克明に描かれている。
一読して私は、こんな時代・こんな家庭があったのか!と衝撃を受けたが、
それと同時に、朔太郎の娘に文章が書けるという可能性を、
この家の祖母や叔母たちは一度も考えなかったのか?
ということも、子供心に不思議に思った。
目の前にいるのは無力な小娘だからと、侮って虐めていたのだろうが、
成長して筆の力を得たら、こういう本を世に出す可能性があったのだ。
朔太郎の血を受けた娘だということ、
その彼女がいずれ大人になれば黙ってはいないだろうということを、
彼らはなぜ忘れていたのだろう。
この本があまりに印象的だったので、私はその後は、
『木馬館』『花笑み』『天上の花』『閉ざされた庭』などが
文庫になるのを待っては、自分で買った。
著者が様々な辛酸をなめ、不遇な結婚生活を送り、
それでも向学心を持ち続け、自立の道を探ったことが読み取れ、
時代や価値観は異なっても、女性としての共感があった。
しかし一方で、読者としての私は、徐々に成長し、
良くも悪くも、客観的に読むことを試みるようになっていたので、
80年代半ばくらいからは、記述を単に事実として受け入れることをせず、
私小説であっても、意識的・無意識的な脚色は入っている筈だ、
と考えるようになっていた。
それは書き手にとっては真実の一端なのだろうから、
「歪曲」と非難する気持ちは私には全くなかったけれども、
ほかの関係者が同じ出来事を語れば、きっと内容は違うだろう、
ということを、私はしばしば想像するようになったのだ。
そのことが、今回の萩原朔美氏の文章の中でも触れられていた。
朔美氏は、母親に我が儘を言い反抗した思い出が多々あったことを書かれ、
自分は常に葉子を悩ませた親不孝者であったのに、
小説の中の「息子」である自分は、一貫して、
親思いの素直な子として描かれていると指摘なさっている。
『(葉子の小説では)悪者は夫と、祖母と伯母と実母である。
自分の父親と子供はどこまでも美化される。
母親は、自分の作品の中では、子供は善玉と決めていたのだろう。
あるいは、自分のせいで片親にしてしまった(=戦後に離婚したので)
という負い目を感じていたのかもしれない』。
『閉ざされた庭』には、引っ越した新居での第一夜の夕食で、
ささいなことから夫が癇癪を起こし、食卓をひっくり返し、
うろたえる妻の前で、怒りにまかせて一枚残らず皿を割った、
という逸話が出て来る。
この夫は、常に短気で暴力を振るい、妻の誠意を踏みにじり、
家庭の幸福を叩き壊した男として描かれている。
しかし朔美氏の記憶ではテーブルは作り付けでひっくり返せなかったし、
皿を見境無く割れるような経済的余裕もなかった、ということで、
夫婦の諍いが激しかったことはともかくとしても、食卓の描写は
「あまりにもオーバーだ」とクールに葉子の脚色を指摘なさっている。
それにしても、葉子がこうして筆の力を尽くして造形した、
この非人間的な夫というのが、朔美氏の父親なのだから凄まじい話だ。
朔美氏は、「ここまで書いていいのかしら、という感じである」
と突き放した調子だが、夫を完膚無きまでに否定するということは、
息子にとってのたった一人の父親を、自分の筆で破壊することだ。
葉子はそれでも、書いて書いて自分を吐露するほかなかった。
書くということ、とくに私小説を手がけるということは、
周囲の人間も自分をも、傷つけずにはおかない、無惨な行為なのだ。
葉子の書くことの原動力は、父・朔太郎の存在だった。
朔美氏は、夫婦仲が悪く夫を憎悪することになったのも、
葉子が、記憶の中の亡き父を、目の前の夫の中に求め、
失望を繰り返したからだと看破されている。
イメージの中の理想像と、現実の男性とでは勝負にならない。
朔太郎から自由になることのなかった葉子の離婚は必然だった。
朔美氏は本文中で、葉子が「私が死んだら何を書いてもいいわよ」
と言い残したことに触れ、しかし今まさにそうなってみると、
何を書いてよいかわからない・何も書けない、
という気持ちだと述べられている。
そのことは読者としての私の感触にも、少しあって、
本書を読みながら、私が本当に知りたかった萩原葉子の素顔は、
ここにはあまり書かれていないような、もどかしい気分が幾度かあった。
しかし同時に、それはそれで、朔美氏と葉子の距離感や、
親の死後に「不在の感覚」を味わう息子としての朔美氏の立ち位置が、
言外に想像されるところでもあって、
葉子の著作には描かれなかった部分を補うのには十分だったと思った。