三月歌舞伎座の演目が公式発表になった。
御名残三月大歌舞伎(歌舞伎美人)
今回は三部構成ということだ。
音羽屋(菊五郎)の出演に関しては、
第一部が『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』の「真柴久吉」、
そして第二部が『弁天娘女男白浪(べんてんむすめめおのしらなみ)』
の「弁天小僧菊之助」。
音羽会新年会の席上で、『決まっているところだけ』と促され、
音羽屋が「三月歌舞伎座は弁天、共演は播磨屋と高麗屋」、
と言っただけで会場から悲鳴があがった。
勿論私も死にそうな声をあげたうちの一名だった。
「南郷力丸」吉右衛門(播磨屋)、「日本駄右衛門」幸四郎(高麗屋)、
ほか、「忠信利平」に左團次、「赤星十三郎」に梅玉、凄い顔ぶれだ。
同じく新年会のとき「三月歌舞伎座に出られますようにと願っている」
と語った菊之助も、浜松屋の伜『宗之助』で名前が出ていた。
一方、新年1月3日から国立劇場で公演されていた、
『旭輝黄金鯱』は、本日めでたく千秋楽となった。
私もこのお芝居は運良く10日に観ることができたわけだが、
今回、強く感じたのは、昔の芝居のあり方・組み立て方についてだった。
現代人の我々は往々にして「辻褄が合っていない」「リアリティがない」
という点を、まるで鬼の首でも取ったかのようにツッコむわけだが、
それとは全く次元の違う、芝居の作り方があるのだということが、
この舞台を見ていると非常によくわかった。
すなわち、場面場面の面白さ・吸引力が何よりも優先され、
それによって仮に全体としての一貫性を欠いてもさほど問題ではなく、
観客が、その場その場で展開されるものをどれほど楽しむことが出来たか、
のほうが、作り手や演じ手にとって大切だ、ということだ。
話としては大泥棒の柿木金助の一代記、なのかと思いきや、
主演役者の八面六臂の扮装(盗賊・勅使・祈祷師プラス金鯱観音・爆)や
大仕掛けの演出による彼の雄姿(宙乗りや天守での立ち回り)
などを印象的に見せることのほうに重点が置かれていて、
キャラクターとしての柿木金助の一貫性は、敢えて二の次になっていた。
また、一本の芝居の中に、シリアスもあればコメディもあり、
世話物風もあれば時代物風もあり、舞踊もあって大立ち回りもあり、
宙乗りも本水もあって、流行ネタの軽妙なギャグもあり、
そして最後は堂々の勢揃い、劇的でオイシイ場面がこれでもかと続き、
観客が「ああ楽しかった、いっぱい見た」という面で満足するのが、
このお芝居の醍醐味なのだった。
その流れの中では、登場人物の人格だの話の首尾一貫性だのと、
枝葉末節にばかりこだわって、良いところを見逃してしまうとしたら、
それは損な見方なのだと、私は見ながらとても納得した思いだった。
10日に一緒に見た友人が、
「なんか、これ、(宝塚の)谷(正純)センセの芝居観てるみたい~」
と笑ったのが、実に良いところをツイた感想だったなと
今思い出しても感心してしまう、ワタクシなのだった(逃)。