先日来、ポゴレリチについてちょっと書いておきたいことがあって、
それはまだ残念ながらきちんとしたカタチになっていないので、
こちらにもUPしていないのだけれども、
それを書くにあたり、私はポゴレリチに関してのみ、
自分の脳内アーカイヴが図書館の索引カードのように機能する、
ということを、改めて発見した。
あの記載があったのは、95年9月録音スケルツォの英語版ブックレット、
あの見解が掲載されていたのは、94年5月のアンバサダー・レポート、
あの発言が出ていたインタビューは、82年1月のクラヴィーア、
あの批評を載せていたのは99年10月のワシントンポスト、
・・・と私はポゴレリチのことなら、
彼がいつ何をして、マスコミがそれをどう書いたか、
場合によっては書いた人間がなんという名前だったか、ということまで
頭の中の抽出にいつでも取り出し可能な状態で収まっているのだ。
どうだ、すごいだろう。
昨日の夕飯が何だったかも、既に定かでない、このワタシが。
昔、ドラえもんオタクの同僚が、ひとつの台詞やエピソードだけで、
それは第○巻の○ページのどこそこ、とすぐ言い当てていたが、
そういうのと同じことだ。
ヲタをなめては、いけません。
正直に告白すると、私はカップラーメンの値段も知らないし、
ホッケなる魚をどうやって料理するのかも全然知らなかった。
ワインの相場も知らないし、ビール一缶いくらかも自信がない。
いつも書いていることだが、グッチとシャネルとヴィトンと、
どれがどう高いのだかも私には判然としていない。
こうしたもの、どれもこれも、私の生活の中に全く登場しないからだ。
私は非凡な面がひとつだけあると同時に、
どうやら「庶民生活というものを知らぬ非常識な」人間であるようだ。
ただ、私の非凡さは、全く世の中の役に立たず、
富にも権力にも結びつかないので、
誰からも賞賛されず羨望の的にもならず、
よって、私の「非常識」さも、世間から非難される機会がない。