最期は我が家で、が理想? | 転妻よしこの道楽日記

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「最期は我が家で」長寿センター、目標20万人へ(読売新聞)
『自宅で死亡する人の割合はわずか12%(年間約13万人)。在宅療養し、最期は家族に看(み)取られ……という人の割合はさらに少ない。そんな現状を改善しようと、「国立長寿医療センター」(愛知県)が、今後5年以内に年間20万人の最期を在宅で看取る体制作りを目標に掲げた』

穏やかな療養期間ののち、ある日のこと衰弱が目立ち始め、
最期が近づくとともに徐々に呼吸が間遠になり、眠るように逝く、
・・・というドラマみたいに安楽な老衰だけを想定しているのか?
と、この記事には大いに首をかしげてしまった。

そのような最期でさえも、この文面のようなことを実現するためには、
最後の呼吸が終わるときまで昼夜構わず付き添う家族が必要で、
かつ、深夜でも早朝でも、電話ひとつで臨終に駆けつけてくれる医師が
必ず確保されていなくてはならない。
医師の目の届かない亡くなり方をしたら「不審死」にされるのではないか。
そうなったら家族は、僧侶や葬儀屋より先に、
まず警察を呼ばなくてはならず、「事件」扱いにされて、大騒動だ。
そして多分、遺体は家族から離され司法解剖にまわされるだろう。

さらに、なんらかの疾病、とくに悪性疾患で亡くなる場合、
患者の呼吸苦や疼痛や吐血などが激しいことが多いから、
最期の日まで絶えることなく、それを受け止め続ける家族のほうの、
精神的な動揺や心身の苦痛は、ただごとでない問題だと私は思う。
病院にいてさえも、付き添う家族には心穏やかな日々などあり得ない。
ましてや、自宅でとなると、予め説明を受けていたとしても、
人の臨終に慣れている一般人など、まず、いないし、
適切な対処ができず、パニックに陥るほうが普通だろう。
患者は最悪、あわてふためく家族の前で、苦悶しつつ亡くなるのだろうか。
また今時、昼でも夜中でもすぐに自宅に来てくれる医師など居ない。
そもそも通常の診療だけでも過労死しそうな医師のほうが多いのだ。
と言って救急車を呼んでしまったら、第三次救急医療機関に搬送されて、
「自宅で最期」という基本コンセプトに外れてしまうから駄目だ。

患者が、司法解剖を含めて自分の身に起こり得る事態を了解したうえで、
なおかつ命の果てるときまで自宅で過ごすことを望み、
体力も時間も経済力もある家族が複数名でそれを支えることができ、
ケアマネージャーや診療所の医師と意思の疎通が充分に図られ、
往診や訪問看護、ホームヘルパーのサービスなどが受けられる、
という種々の条件がすべて揃っていれば、
最後の日々を家族に看取られて過ごすのも、可能だとは思う。
どのような疾病であれ、病人本人も家族も関係者も、
自宅療養が今後、何年間か続くかもしれないという可能性を考え、
その上で意見の一致を見ていることは、当然の前提だろう。
そのような状況にある高齢者が、意志に反して、
死ぬまで病院に縛り付けられていなくてはならない理由はない。
しかし、そんな人は、むしろかなり稀なのではないだろうか?

再発食道癌だった舅の、自宅での療養の過酷さ、訪問看護の限界、
そして緩和ケアを受けて過ごした最後の入院期間のことを思い出すと、
私は、「自宅で最期を」というのは、
第三者が頭で考えるような綺麗ごとでなく、
むしろ美談には程遠い酷い面があることを、
つい、強調したい思いにかられてしまう。
『自宅で死亡する人の割合はわずか12%』という数字は、
おそらくは、それなりに合理的な根拠のあるもので、
決して高齢者の無力さや、地域医療の無能さ、家族の非情さ、
などを反映したものばかりとは言えないと私は思っている。

個人的には私自身は、今まであまりにも転居が多かったので、
どこもさほど「自宅」という愛着のある場所がないせいか、
もし自分が高齢になり、死に至るほど病が篤くなった場合には
医療設備の整った場所で、とにもかくにも苦痛を軽減して貰いたい、
というのが、現在の希望だ。
自宅で自分が死ななくてはならない、と想像するとひどく不安だ。
記事には、地域医療を充実させるだけでなく、
療養病床を現在の38万床から15万床に減らす方針だと書かれている。
これが実現した場合、私本人がどれほど入院を希望しても、
いずれ、私を受け入れてくれる病院は、無くなるかもしれない、
と思うと、暗澹とした気持ちになる。