
ということで昨夜は、友人に誘われて、聖ラファエル教会へ、
薦田義明バリトン・リサイタルを聴きに出かけた。
ピアノはミヒャエル・バウマン。
声をかけてくれた友人というのが、薦田氏の愛弟子だったので、
声楽にウトい私がこのようなリサイタルを知ることが出来たのだが、
曲目はシューマンの歌曲の中でも一般には知名度の低いものが多く、
ましてや私に至っては、ドイツ語歌詞など全く知らないし、
最初は、どこまでついて行けるだろうかと我ながら不安だった。
ところが、実際に聴いてみると、そんな心配など全く要らなかったのだ。
最初はゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』より『竪琴師の歌』。
この三曲で私は音楽の中に強く引き入れられた。
「涙ながらにパンを食べたことのない者」、
「淋しさに身をまかせる者は」、
「家々の戸口にそっとしのび寄り」、
ここまでの静謐さ、重厚さが、まず、素晴らしかった。
教会という場所のせいもあるかもしれないが
神と真摯に向き合う、魂の対話のような音楽だと思った。
その次が、レーナウの『6つの詩とレクイエム』。
先ほどまでの三曲が、徹底的に己を問いつめるような
深い重苦しさに支配されていたのに較べ、
「鍛冶屋の歌」からは不思議な開放感が加わった。
「ぼくのばら」になるとまるで恋歌のような彩りがあった。
「出会いと別れ」「牛飼いの娘」「孤独」「ものうい夕暮れ」、
そして前半の最後が「レクイエム」。
レクイエムは元来、ラテン語で「安息を」の意味だが、
ここで歌われたレクイエムは我々がイメージする「鎮魂」ではなく、
輝かしい神の国に入る喜びを歌ったものだった。
教会の高い天井まで、薦田氏の冴え渡る歌声で満たされて、
それはまさに「神と結ばれる至福」だった。
なぜこれが前半最後の曲に選ばれているのか、
理屈でなく、音を聴いて納得できた気がした。
休憩を挟んで、後半はハイネの『リーダークライス』から。
登場した薦田氏、足取りからして心持ち軽やかで、
なんと衣装は同じだがネクタイを外していらしたのだった。
それが演出だったかどうか定かではないが、
後半は確かに、それまでとは違った、躍動的な音楽があった。
「朝めざめるとまず思う」
「ああ いてもたってもいられない」
「あてどなく樹の下をさまよった」
「ほら この胸に手をあててごらん」
「ぼくの苦悩の美しいゆりかご」
「おーい、待ってくれ、船員さんよ」
「山々や城が見下ろす」
「はじめはまったく生きる気を失って」
「愛らしく、やさしいミルテとばらで」
これらの歌曲を通して、薦田氏はなんとチャーミングだったことだろうか。
厳粛な神との対話や、ストイックな自問自答だけでなく、
後半の曲目には生きてあることの歓びや、
人生の様々な愉しみが歌われていたと思う。
私は全く声楽の知識も何もないのだが、
バリトンというのは、これほど広い音域のものだったのかと
薦田氏の深い低音から張りのある高音にまで聞き惚れた。
それとともに、日頃はピアノを聴くことのほうが多いので、
平均律の音程が私の中にいつもあったのだが、
こうして声楽を聴いてみると、音から音への美しい躍動や、
細やかな揺らめきのようなものが感じられて新鮮だった。
声による音楽の美しさを改めて気づかされた思いだった。
最後は、ケルナーの『12の詩』より。
「嵐の夜の歓び」「ひそかな愛」「森への憧れ」「さすらい」
「問い」「ひそかな涙」「さすらいの歌」。
演奏曲目の歌詞はすべて、薦田氏自身の訳によって、
プログラムに掲載されていて、そのことからも、
聴衆に語りかけ、心を伝えるという、
薦田氏のスタンスが強く感じられた。
特にケルナーの作品群は、異国に学び今も研鑽を続ける、
声楽家としての薦田義明そのものを歌ったような内容だったと思う。
教会でのリサイタルは雰囲気も素晴らしく、
会場はよく反響して聴き応えがあったが、
反面、ひとつひとつの音に、あまりにも真っ平らな残響があって、
微細なニュアンスや発音の美しさを聴き取るには
不向きな会場だったかもしれないとも感じた。
そういう意味では、もっと音楽向きの専用ホールで聴きたかった。
しかしやはり、あの声をあの空間・あの人数で独占できたのは、
このうえなく贅沢なひとときだったかもしれない、とも思った。
次の演奏会があれば、是非、また聴きたいと思っている。