宝塚のスカーレットは、歴代、男役によって演じられることが多かったので、
今回、花總まりが演じるにあたって、観客の多くが注目したのは、
『娘役が演じたらどうなるのだろうか?』という点だったと思う。
しかし私は、彼女の舞台人としての自己顕示の仕方には、
既に信頼にも等しい気持ちがあって、
それは事実、この『風共』の舞台においても裏切られることはなかったので、
娘役が演じたことでマイナス面があったとは、ほとんど思っていない。
花總まりのスカーレットは、全体としては良い出来だったと思う。
技術的に破綻がないうえに、元来はっきりと自己主張のできる人だから、
怖じ気づいたりせずごく自然に、男役に踏み込む演技が出来ていたと思うし、
それはスカーレットという役に必要とされる要素でもあった。
コンビとしてのキャリアのお陰で、和央ようかとの信頼関係も充分で、
恋愛ものとしてのバトラーとスカーレットの関係性には、私はほぼ完全に満足だった。
自我が強く、過酷なまでに前向きで、
他人の視線など跳ね返すような逞しさもあり、同時に子供っぽく、
・・・・こうした観点では花總スカーレットはとても良かったと思うのだ。
が、結論として、花總スカーレットは、最後まで、私の思うスカーレットではなかった。
初見の倉敷昼公演のとき、私は舞台を観ながら、
なんとも言えない違和感が募って来るのをどうしようもなかった。
これは、脚本があまりに端折られ過ぎているせいなのだろうか、
私はこれのどこを、スカーレットではないと感じるのだろうかと、
曖昧な気持ちのまま、ずっと、花總まりを観ていた。
それが、二幕のバトラー邸新築披露パーティで、突然わかったのだ。
スカーレットはここに来て初めて、それまでの喪服やエプロン姿ではなく、
目の覚めるようなイブニング・ドレスを着て、一分の隙もない姿で立っていた。
そのほっそりとした首から肩にかけての高貴なライン、
すらりとした立ち姿は、生まれついての貴族か姫君のようだった。
この場面で初めて、花總まりが本来の輝きを放ったと感じられた。
こんな美しい娘役は、滅多にいないだろうとさえ思った。
だが、だからこそ、いけなかったのだ。
絹の装いが何の疑問も寸分の違和感もなく身についてしまうなどとは!
確かに、娘時代のスカーレット・オハラは大農場主の長女として、
労働とは無縁の育ち方をしたが、だからといって英国貴族の令嬢だった訳ではない。
その体には絶えず、父から受け継いだアイルランドの百姓の血が燃えていて、
彼女自身がタラの一部として、暑い赤土に根を張るような生命力を持ち、
その力強い輝きゆえに、バトラーやアシュレを魅了したのだ。
アトランタ陥落の夜に、彼女が命がけでタラを目指したのは、
タラの大地こそが、彼女に命を与えてくれた、胎内にも等しいものだったからだ。
彼女には、土が必要だった。
どんな苦難の中でも、あの赤土に抱かれれば、
彼女は自分に還ることが出来、明日を目指す力を与えられた。
そのことは、彼女を理解している周囲の人々にとって何より明白だった。
だからこそ、母の墓の前で泣き崩れるスカーレットに、マミーは土を握らせるのだし、
「貴女が僕よりも愛しているもの」だと、アシュレもまた彼女に土を与えるのだ。
私の思うスカーレットは、『タラを愛しタラに愛されるアイルランド系の女』で、
それはレット・バトラーが、どのような放蕩な生活を送ろうとも、
結局チャールストン上流階級の男だったことと、鮮やかな対比をなすものだ。
こんな女に、絹のドレスが皮膚そのもののように同化したりするだろうか。
どれほど贅沢なドレスであれ、そんなものは、美しい仮面に過ぎない。
彼女の父親譲りの血が隙あらば顔を出そうと見え隠れしていて、
彼女は、その葛藤を体現するようにして、立っているべきではなかっただろうか。
花總スカーレットには、その葛藤が無かった。
彼女にとっては、タラは一応故郷だったというだけで、
なくてはならないものとは思われなかった。
彼女はタラと無関係に、自分の意志や欲求によって行動しているように見えた。
私はそこが、根本的に不満だったのだ。
断っておくが私は決して花總アンチではない。
これまで、私が和央ようかに5000字分の文句をつけたことはあっても、
花總まりをかくも明白に否定したことは一度もなかった筈だ。
あのスカーレットは、彼女独自の考え方によるものか、
それとも劇団による指示や演技指導がああなっていたのか、私にはわからない。
しかし、和央・初風によるバトラー・アシュレがあまりに目覚ましかったからこそ、
花總まりのスカーレットは、私には、残念でならなかった。