違いを実感!
最近、聖書やらコーランやら日本書紀やら宗教のお勉強をしてました。翻訳や解釈をした時点で、内容が変わるということを実感しました。著者によって変わり、著者が読者を意識することで変わり、読者によって更に変わります。さて、これらは同じことを言っているのでしょうか?Confucius2000より:子曰:“学而时习之,不亦悦乎?有朋自远方来,不亦乐乎?人不知而不愠,不亦君子乎?”(おまけ)Confucius2000をGoogle 翻訳:孔子は言った:"学習が、それは喜びされていない遠くからの友人を持っている人は紳士的ではなく、怒りではなく、知らないのか??"中村学園大学・中村学園大学短期大学部ホームページより:子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎 中村学園大学・中村学園大学短期大学部ホームページより:The Master "Is it not pleasant to learn with a constant perseverance and application?"Is it not delightful to have friends coming from distant quarters?"Is he not a man of complete virtue, who feels no discomposure though men may take no note of him?"(おまけ)中村学園大学・中村学園大学短期大学部ホームページをGoogle 翻訳:マスターは"それは快適ではない一定の忍耐力と、アプリケーションを学ぶか?"それは友人が遠い方面から来ているには魅力的ではないか。"人は彼のないノートを取るかもしれないが、彼は動揺を感じる完全な美徳の人は、いないのか?"ぶしどうマネジメントの指針集 『論語』より:学んで時に之を習ふ。亦説ばしからずや。朋あり遠方より来る、亦楽しからずや。人知らず、而して慍らず、亦君子ならずや。まなんで ときに これを ならふ。また よろこばしからずやとも あり えんぽうより きたる、また たのしからずやひと しらず しこうして いからず、また くんし ならずや聖賢の道を学び、時々に応じて復習する。誠に喜ばしいことだ。同志がいて遠いところからも訪ねてきてくれる、なんと楽しいことではないか。自分が立派なことを他人が知らなくても、いきどおったりしない人こそ、本当の人格者ではないか。学んだときにわかった気になるが、実は浅い理解であることが多い。時間をおいてその知識を復習してみると、それまでのさまざま経験により、理解が深まる。そして、開眼することがある。昔学んだことを振り返ってみよう。朋とは、同じ目的のために共に戦う同志のこと。人間は思想においてつながることができる。ごく身近な社員と、同志としてつながっているか。人は有名になるために生まれてきたのではない。自分自身の魂レベルの向上のために生まれてきたのである。その目的を理解していさえすれば、すでに君子になったも同然ではないか。