今日(きょうび)何故日本語の文章が横書きにならないのかと、不思議でならない。新聞社も、雑誌社も、その他の出版社も、因循姑息としかいいようがない。
もう既に、大資本を投入して実施した新聞社の編集や紙面割付けのシステムも原価償却を終わりかけた時分であろう。プログラムを少し弄れば安いコストで横書きに切替えられると思う。例えば、今日の作家達の大部分はワープロなりパソコンなりで創作し、編集者には縦書き原稿で渡しているのであろうか?すると、新聞社や雑誌社は校正や編集(割付け)などの作業も含めてもう一度機械に入力し直すための作業をしているのであろうか。そんなこともあるかもしれないが、大半はフロッピーやディスクでの原稿の授受という方法がとられているのではないだろうか。しかし、最終的アウトプットの「作品」は縦書きである。だから、私は日本語の文章の横書き化を考えるのである。
私は早晩、日本語も横書きになると思っている。問題はそのときまでの文章の体裁と文体の変化の問題である。「国語系」や「文学系」の方々が、最後まで抵抗されるのでは、とも考える。いわゆる「文体論」である。縦書きと横書きでは、大切な文体が変わってしまうと、抵抗されるのではないだろうか?その他には、細かな現代国語の表記法(ルール)も
問題になるのでは、と考えたりする。
しかし、私はラジカルだ。横書きも横書き、英文レターの「ブロック体」で、今この文章を書いている。ルールとして、段落の始めにスペースをとらない、段落は一行空けることにより示す。
仕事上「テレックス英語」でごまかしていた私は、旧通産省立「貿易研修センター」で、しこたま英文レターの作成を鍛えられたはずだった。三十三歳の頃である。しかし「ファクシミリ」の時代となり、本格的に英文レターを書かなければならなくなったとき本当に苦労した。会社に英文をチェックしてくれる「外人さん達の部屋」があり、そこへ毎回チェックを受けに行かなければならないのだ。本当に「テレックス英語」は良かったなとの郷愁しきり・・・・。
それでも、その後ドイツの田舎の会社に出張したとき、私の送ったテレックスの綴りが保存してあった。こちらは大文字で送ったつもりだが、ドイツ側では小文字でアウトプットされていたのには驚いた。「貴方の英語は名文だ、いつも読んで勉強している」と変な褒め方をされた。違いは金を「時間」でとるか「字数」で取るかであるが、テレックスは、基本的にテレグラム(電報)である。だから(日本人の最も苦手な!)冠詞なんぞは省略する。さらにアブリビエーション」(短縮語)を多用する。母音を削り、できるだけ子音だけで通じる、ぎりぎりの単語を作る技術が格好いいとされていたのである。
ネイティブ(英米人)以外の前では、テレックス名人の私がなんと「テレックス」英語でしゃべって「英語堪能」で通じていた(?!)。なんとも「おおどい」話しである。その実は「カタカナ英語」であり、頭の中に正しい英文スペルを全く意識していない英会話なのである。ただし、RとLだけは極端に誇張して発音するように心がけた。前述の貿易研修センターで「助教」をしていたアメリカの大学生に一週間ばかり「リスニング」の特訓を受けたが駄目で匙を投げられてしまった。しかしそのとき、会話中にRとLの「指文字」を使って確認しあう方法を習得した。「コレクション」はRが訂正、Lが(代金の)回収、といった具合である。又、電話だったら「レイディオ・フォー・R」、「ロンドン・フォー・L」とかしゃべる。
今は、もう自信がないが、二十年くらい前には、かの「シンガポール英語」(マシンガン・イングリッシュ)にも負けない自信があり、タイのパタヤでアジヤ会議を仕切れた。オランダのアムステルダムでのヨーロッパ会議でもイギリス人をうまいように使って仕切れた。貿易センター当時に受けたトイックやトイフル(国際的な英検のこと)では日本の高校の英語の先生達の平均点(これが実に低かったのだ!)を超えていたし、テクニカルターム(業界用語)では会議に参加した誰にも負けない自信があったからである。
さて、二十一世紀は「インターネット英語」の時代といわれている。日本語も「インターネット日本語」にならなければならないと思う。いやがおうにも「横書きのブロック体」にならざるをえない。なぜなら英語と日本語の併記の場合など、現在の日本語の表記法のままではおかしい。又、早晩「電子図書館」もできるだろう。横書きや縦書きなどに関わりあっておれない。世界中の文献をデジタル情報でアクセスできる時代にあるのだ。
例えば、アメリカの「日本オタク」のデーブ・スペクターという名の少年が日本の「電子図書館にアクセスし、漱石や鴎外を日本語でも英語でも読んでいるのだ。これからの時代に、縦書きが横書きが、それで「文体」が、などとのリニアーな、アナログな話しに、いかほどの意味があるだろうか?その内に、横書きの日本語の新しい表記ルールの中で「文学」も「文体」も生まれてくるのである。
自動翻訳も進んでいくと思う。しかし、それが名文であったり、まして「文学」である保証はない。「学習機能」を付加して、ある程度までは良い翻訳ができるようになると思う。しかし、あくまでアホなコンピュウターに人間が「調教」を加えなければならないのだ。
横書きの日本語は、今ビジネスの世界では当たり前なのである。又、行政や司法でも文書が横書きで書かれるようになったのである(戸籍謄本や訴状)。インターネットのように個人的通信の世界でも当たり前になった時代なのである。新聞や雑誌、書籍は、何故いつまでも縦書きの日本語にこだわるのだろうか?
狙うのはバイリンガル(並み)の青年達が増えていくことである。ノーベル物理学賞や化学賞を貰うには、絶対に英語ができなければならない。文献を英語で読み、英語で発表しなければならないからである。NHKの第二放送は、よく古い洋画の名作を「日本語の字幕」で放送してくれるので、それなりに高く評価しているが、特に「リスニング」に弱い日本人には「英語の字幕」を入れて欲しいと思う。さらに、特別な(難解な)単語には括弧付きで日本語を加えて欲しいな、と要望したい。
2/2に続く・・・・
