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                                            太郎左ヱ門

まだ幼い丁稚の忠助は盗みの疑いで主人や番頭に折檻された。忠助の実家が特に貧しかったから放逐はされなかったが、後で手代の帳面の付け間違いと分かった。主人は反省して忠助の実家に番頭を伴わせて謝らせた。

忠助の両親は「我々は忠助に何もしてやれません。今後もこの子をよろしくお願いします。立派な奉公人に育てて下さい」と番頭に丁寧に頼んだ。

主人としてはそれでもやはり後ろめたかった。外出の際など極力忠助を連れ出して可愛がった。ある日「忠助なー、私が悪かった。お前に謝らなければいけない。過ちて改むるに憚ることなかれという」
「旦那様、それはなんですか?」
「学問さ。今度一度奥へ来い」 

主人には丁度忠助と同じ年頃の跡継ぎ息子がいた。主人は跡継ぎ息子とともに忠助に学問の基礎を教えた。忠助は飲み込みが早かった。それからの忠助は奥の本を借りて読んだ。学問が楽しくてたまらなかった。生来好奇心とか向学心に富んでいたのだろう。分からないときは主人にこっそり教えてもらった。

手代から番頭になる頃にはもう一端の学者だった。新しい主人が「忠助、お前は塾に通って学問を究めろ」と言った。仕事の合間を縫って忠助は塾に通い学問に精進した。

忠助の名は斯界(しかい)に知れ渡るようになった。主人は「お前の塾を開け。後援する」と言った。何と忠助の塾はお店(たな)よりも有名になった。しかし忠助は番頭も続けた。

この時代、学問は決して武士だけのものではなかった。そして忠義や忠節も武士だけの専売特許ではなかった。



                                        (Mar.5,2005)