

筑後柳川藩、立花十二万石は九州の大名の中の名門である。戦国末期に北上する島津勢に抵抗した高橋氏と立花氏。藩祖の立花宗茂は長子なのに請われて高橋氏から養子婿に入った。関が原の戦いで破れた西軍側に参戦、牢人(浪人)となって流浪したが、何故か(かの地味な)二代将軍秀忠に気に入られて本領を安堵された。
その流浪時代も仕えていたという家柄は特別だった。里美孝一郎はそんな家柄の長子に生まれたが、青年期まであまりぱっとしなかった。藩では西国の大藩の侍達に負けないようにと子弟教育に熱心だった。
封建時代は最終的に家格(石高)と職務が一致するようになっている。だから跡取りにはそれに見合うような人物になってもらわなければならない。父親が現役の内からそれなりの役に付けて修業もさせる。そして家格の釣り合いを考えて嫁も娶らせられる。
全て両親のきめたまま生きてきた、少しぼーっとしたところがある孝一郎。本当は職務熱心で勉強家だった。家庭では妻子が居てもまだ調べ物や学問を続けていた。
両親は孝一郎は少し遅咲きなのかもと思っていた。父親が隠居して孝一郎が家老職を継いだ。しかし藩内の誰もがあまり期待していなかった。家老職に付いても孝一郎の生活スタイルはあまり変わらなかった。
殿様の国入りとなり重臣会議。ご下問があって、筆頭家老以下の重臣たちが答えられない。そうすると孝一郎が答えた出した。
「お主は何だ、全ての職務に通じていて、その上に学者か、見事じゃ」と殿様。
「否、隠居した父親には、少しぼーっとしているから心配だと言われております」
思わず重臣達の失笑。
「お主の父親は切れ者だったが、お主はどうも分からん。まるで藩祖の宗茂公のような・・・・。お主はまだ若い。一度江戸家老をやってみないか」
「ははー、宗茂公のように、請われれば何処へも参りましょう」
孝一郎は少しぼーっとしていると言われながらも江戸家老となり、更に職務にも精通し学問にも励み、最後は筆頭の国家老を勤めて隠居した。彼こそ最も名門の立花家の侍らしかったのかも知れない。
(Mar.20,2005)