かつて,歌を書いていた.今も書いているが,積極的に書こうとはしていない.それでも,注文されてもいないのに書かざるを得ないことはしばしばある.

 楽曲は,高さと尺の順列でaudienceという写像の下した評価によって有意か否かが決められる.新薬の開発のようなものだし,具体的なmessageは伝えられない.歌詞だって,字数や使用可能な単語という制約を受ける.それで,楽曲制作からは距離を置くようになり,譚に本腰を入れた.
 チャップリンの映画は,音楽的だ.チャップリン作品のような譚を志しているひとの気持ちは長年理解できなかったが,それは,じぶんが音楽を囓っていたせいだった.
 音楽と譚を峻別して考えていたが,近頃,その峻別は強迫観念に過ぎなかったと気づいた.
 keyとbassが織り成す写像へ高さと尺を決めた音色を鏤めることによってヒトの胸裡で化学反応を惹き起こすことと,フリがあってヤマがあってオトすこととは,本質的に大差がない.譚の具えた音楽的側面を切り出せば,その譚は死んでしまう.