40になる前後から,マンガを創るようになった.尤も画は描いていないのだが.

 幾つかの分野を渡り歩いてきたおれは,マンガがそのauthorに対して一枚の画@マンガに対して注ぎ込む{情報量}の操作を赦していることや必ずしも精確でなくともよいことに愕いている.

 まだ慣れていないことがある.それが擬音を用いなければならないという縛りだ.擬音を用いなければ動態が伝わらないことが多いので,「縛り」と形容してもよいだろう.

 他人が描いたマンガを観ているときは気にならないのだが,いざじぶんで描くとなると,擬音を用いるのが気恥ずかしい.TV dramaに出演した演者さんが発砲sceneはrehearsalでは撃たせて貰えなくて銃声をscatさせられるとコボしていたが,たぶん,そういうことだ.

 同時に,今まで意識していなかった擬音の凄味も実感している.例えば,「ぽよよーん」は実在しないが,それだけで「躍動している」ことを表せる.「くわっ」「どきどき」も然り.

 擬音を用いはじめて,北条 司はその点でもずば抜けていることに気づいた.

  REBECCA 『フレンズ』(1985.12.25渋谷公会堂)

を観る度,泣けて泣けて泣けるんだよ,どうしようもないほど.

 

 『その男、凶暴につき』『GONIN』『いつかギラギラする日』をそれぞれコスりまくってたおれが,どうして新海 誠『君の名は。』にドハマりしたのか?

 実は,それらに共通しているのは<青春>なのではないか? 『冬の西瓜』@「人間交差点」 likeな?

 <人間>的な情熱が奇蹟を惹き起こすのを期待しているcrazyなromantistなのかもな,おりゃ.

 東アジアでは重症化する人口が少なかったため,結果的には2ヶ月で済んだ.
 一時は抗体ができないのではないかといった説もあり,暗澹たる心持ちだった.

 だが,原発事故以来の,分断.

 自粛を強要する土人ども…戦前・戦中は未だに終わっていないのだ.

 責めるも自由.結界を破るも自由.

 「パチンコ店に行列ができてそれに噛みつく連中」という構図は,<ミソスープ>/* (C)村上 龍 */だ.

 

 自由に堪えろ.