season 2025は最悪だった.先ずは昼職.一旦巻いた契約を反故にされたのは二十余年この稼業をやってきて初だった.それがケチのつきはじめ.立て続けにゴミ案件を掴んでしまった.その間に偏頭痛が再発しMRIまで撮りに足労したものの,果たしてただの副鼻腔炎だったので完治した.

 近所に棲んでいるタメ歳の同志が,三十代のうちに地下から抜けだしたことを識ったのにも打ちのめされた.

 親しくしていた柏の数人とも不仲になった.

 新作のネタが降りてこなくて,のたうち回った.

 だが,師走になって,荒井 晴彦氏と会話する僥倖に恵まれた.おもいきって訊いた.「書けなくなったことってありますか?」と.すると氏は応えてくれた.「そういうときは原作モノ書けばいいのさ?」と.

 workaholicのおれにとって,privateに芯を通す企画がないことは生き地獄だ.そういえば若かりし頃は『ナニワ金融道』や『オホーツクに消ゆ』や『めぞん一刻』や『親子ゲーム』を書いた.中二のときに書いた『親子ゲーム』を読んだ同級生の女子から「田中くんってこういうの向いてるんじゃない?」って云われたことをおもいだした.
 年末年始休暇はScenario考察に終始した/* ってまだ終わっていないけどw */.
 十くらいしか歳上じゃない従兄弟の訃報.

 そんなに時間は遺されてないかもしれないが,おれのやりたいことはずっと前から定まっている.

「『七人の侍』『火の鳥 鳳凰篇』に匹敵あるいは凌駕する譚を創ること」.これが我が畢生の野望だ. 

江頭2:50 イスラム教徒に豚肉成分入りポテチを試食させ大炎上、土下座謝罪も“ギャグにできない”問題の深刻さ指摘する声

 

  何故,筆者も記者だろうにスポーツ紙記者に整理させているのか.

  “ギャグにできない”問題の深刻さ指摘する声 /* 識者のcommentではなく一般人の感想*/を 取り沙汰にするだけの値打ちはあるのか.

  「再びトルコで “やらかし” てしまったためか、今回の謝罪は誠意のあるものだった。」ってどこから目線なのか.
  そして,「問題がこれ以上大きくならないよう願うばかりだ。」と取って付けて,マッチポンプ.

 

 FLASHの記事に目くじらを立ててもしょうがない.だが,記者が知的水準の低いsegmentが喜ぶことを想定して書いたというわけでもなさそう.
 2025-01-27のフジテレビ記者会見は,図らずも,報道に携わる連中への民衆の信用を揺るがすものになった.
 「知は力なり」という命題は,literacyを構成するものが知だということを示唆している.
 流言飛語がliteracyを試す.
 noisesが飛び交わないのは無人島くらいだ.
 価値判断にはliteracyが不可欠だ.
 それにしても,囃し立てる阿呆とそれに踊らされる阿呆…それ観てるおれも…阿呆か?

 

 

 

 

  

 『昭和歌謡大全集』はreal timeに単行本を購った.plotがnonsenseで当時も数十年経った現在でも好みではないが,あとがきは印象に残っている.村上 龍は「何かと引き換えに退屈を選んでしまった連中のことなんて書く価値がない」といった旨のことを述べていた.ここまで書いて『長崎オランダ村』だったかもしれないと不安になったが,あのあとがきも印象に残っている.

 村上 龍が「龍さんはworkaholicだよ」と識者に指摘されたことについて,過日,entryを作成したが,地方に棲んでいるひとが退屈を選んでしまった,というclaimについて,ふとupdateが掛かった.

 かかるclaimは,「もし村上 龍という人格が生まれ育った佐世保や長崎に棲みつづけていたとしたら,何かと引き換えに退屈を選んだ」という意味なのだ.経済人仮説のような言説.龍さんはworkaholicであり地方都市に収まることができない個性を持て余していた.「何かと引き換えにしなくても」地方都市に棲める人々はいる.おれもworkaholicだとあのessayで自覚させられたので,いままで,かかるclaimが「村上 龍仮説」であることに気付かなかった.
 おれや龍さんにとっては到底堪えられなさそうな暮らしをしている人々はきっと「堪えて」いないし,「退屈」でもなく,置かれた場所で咲くことが苦ではないのだ.
 artist(s)は,自らがそのsituationやcircumstanceに置かれたらかくあるべし,ということを無意識に主張しがち.キちゃったニーチェ/*  Nietzsche */の轍を踏まなきゃ,それでよい.