つい先日,11年3ヶ月の結婚生活が終わった.つくづくおれは他人と暮らす適性を欠いていると痛感した.

 最初に結婚しかけた女に別れ際に云われた.「あなたは私のことをほったらかしにしている」と.今回の結婚生活もそこがbottle neckとなった.

 個人として,やりたいことだらけ,なのだ.女といちゃつくのも愉しいけれど,それは憩い.憩いが時間割りを塗り潰せばそれは憩いではなくなる.

 半年くらい前だったか,某所で立ち読みした龍さんのessayをAmazonで取り寄せた.『星に願いを、いつでも夢を』という書籍.龍さんのessayを購うのは二〇年振りくらいだった.その書籍に,龍さんが精神科医に「あなたはworkaholicだよ」と宣告されるepisodeが載っていた.その精神科医に拠れば,workaholicのfeature(s)は,生業漬けということではなく,[退屈と待つことを厭う,時間を惜しむ]らしい.当て嵌まる,おれ.

 [村上 龍, 小林 よしのり, ビートたけし]は,数十年の間観察してきた.推し量るに,彼らはworkaholicだろう.

 [babel, Wells, Eureka, Prometheus]で空っぽになっていたとき,ありふれた暮らしに救われた.

 でも,おれはありふれた暮らしに向いていない.ex-wifeに対して負の評価感情は懐いていない.soul mateであることには変わりがないのだ.

 おれは燃え尽きたいだけだ.

 

 

 

 石丸構文は日テレサイドの不手際によって生まれたもの.武田 砂鉄の問いに対しては,「そんなことを記したつもりはないので,ギョッとしたのは事実誤認によるものなのでご放念ください」くらいに応えておけばよかった.

 

 フワちゃんの失言は,ボケてスベったんだろうというのが第一印象だった.日銀の金利政策や外務省の高度な外交方針などと異なり「バカにも判る」ので炎上した.因習を崇め奉る奴隷根性を擁した連中が,彼女のような異分子の快進撃を快く思っていなかったことは想像に難くない.亀田一家が叩かれたときと一緒だ.但し,あの手の芸風は躓いたら叩かれるのは必至.

 

  「フワちゃん」暴言はシャレにならないレベルに 「もう芸能界を引退するしかない」と話す業界関係者も

 AERA dot.の記事だ.よく読んだら,テレビマンが記者に対して「『もう芸能界を引退するしかない』と話す業界関係者もいます」と云った,というだけ.

  「公共の電波に乗せてはいけない人」フワちゃん やす子に直接謝罪も沈静化の気配ナシ…GoogleからNG宣言で“地上波出禁”の可能性も

 「女性自身」の記事だが,一読してみると,「公共の電波に乗せてはいけない人」との感想は「ネット」の「厳しい声」とのこと.その人物は,公共の電波に乗せる可否判断をする資格を共同体からauthorizeされてもいないだろうに堂々と命題を表明している.噴飯物だ.

 「ネット」の「厳しい声」には,こういうものもあった.

  こういう人物/* フワちゃん */を企業がCM起用するのはハイリスク 自分なら起用しないな…

 リスク回避は誰でも考える.「I am 慧眼の士」とでも仰りたいのだろうか? risk回避を常套手段にしている人物は出世とは無縁な気がする.

 

 ネット斜め読みして市井の人の気の利かない「声」で紙幅を埋めて,偏差値が高くて大手に勤めているが何者でもない輩が間接的に出る杭を叩いてやがる.みっともねえ.

 

 

 フワちゃんの釈明は,damage control観点だと,最適解ではないか.例え,後付けだとしても. 

 

 

 

 

 

 やっと『水のないプール』を観た.『十階のモスキート』もそうだったが,『Taxi Driver』に影響されているという印象を懐いた.

 藤子不二雄Ⓐ『勇気は損気』は,主人公が渇望したheroになれそうな機会に遭遇する果たして捏造してしまう,という譚だ.かかる主人公はTravisと同一視できる.

 そういう機会が訪れてくれたら,という願望は普遍的.

 だが,「人生は劇的ではない」.

 heroになれる機会を[選択的非注意, 確証bias]等によって捏造してしまうのは,醜いことだ.ドン・キホーテがそういう譚だ.

 

 自己愛や自己顕示欲の傀儡に堕さぬよう,energyを持て余さないことを心掛けたい.