信濃が部屋へ戻ると、もうそこには壱花が来ていた。
リビングでTVを見ていた壱花が振り返る。
「おかえり、おねえちゃん。」
「ああ、壱花ごめんね来てもらっちゃって。ありがとう。」
壱花の前にはお茶のペットボトルがあった。
「お茶なんか買わなくてもウチの飲んでいいのに。
ね、ゴハン食べていくでしょ?
今パパッと作っちゃうね。」
信濃の言葉に、壱花は嬉しそうにうなずいた。
気味の悪いところも多いが、壱花は時々可愛い妹の顔ものぞかせる。
信濃は買ってきた物を調理台にならべながら妹に話しかける。
「で、この部屋どうだった?」
「この部屋には何もいない。
隣は確かにいるよ。嫌な感じはしないけど。
でも、おねえちゃんは怖かったんだよね?」
「うん、とっても。殺されちゃうかと思ったんだから。」
「安心して。守りを置いた。もう入って来れない。」
信濃は野菜を洗う手を止めた。
「え?」
急いで手を軽くタオルで拭くと、キッチンから出る。
「守りって何?」
不安を隠しきれない声で、壱花に問う。
可愛い妹でありながらも、この部屋に黒魔術グッズを置きかねないのが壱花だからだ。
その彼女は、表情を変えず答える。
「犬神。」
「いぬがみ?」
信濃には聞きなれない言葉だった。
壱花はあたりまえのようにうなずく。
「きのう番を頼んだカラスが教えてくれたの。
キツネがいるって。
だから、ちょうど手元にあった犬神を持ってきたの。
キツネは犬神を嫌うから、もう来れない。」
確かに、一晩中カラスは居た。
壱花が“お願い”したのはあのカラスだったのだろうか。
それにしても、キツネ、だの、手元に犬神、だの信濃には色々と理解できないことが多い。
だが、質問したところでさらにオカルトオンパレードな回答しか返ってこないだろう。
この件は流そう、とにかく何かおまじないをしたってことだ、と信濃は自分なりに解釈し、一番気になる部分だけを質問することにした。
「それで、その犬神って?」
壱花は静かに立ち上がると、信濃の寝室のドアを開けた。
隣、山形義晃の部屋に接している壁を指差す。
そこには、さびたノコギリが立てかけてあった。
白基調の明るい内装、それに合わせて選んだ家具、大人らしさと可愛さのバランスを考えて選んだカーテン、部屋のあちこちに置かれたファンシーな小物。
その全てと、ノコギリは壮絶に全面衝突していた。
部屋の中で、そのノコギリだけが周囲を薄暗く沈ませながら異彩を放っている。
妹が自分のためにしてくれた事とはいえ、効果は怪しいこの妙なおまじないを、信濃はすぐに受け入れることができない。
「壱花、おねえちゃん寝室にノコギリがあるのは、ちょっと、何ていうか・・・落ち着かないな。」
「でも、効果は確かだから。」
壱花は信濃の考えが見えているかのように犬神の力を口にした。
「けどね、部屋が・・・そうだ、カバーかけちゃダメかな?」
見えなければ何の問題もない。
綺麗な布でもかけてしまえば、部屋の雰囲気を壊さずにすむ。
しかし、壱花の答えはそっけなくも鋭い。
「ダメ。友達が来たなら客室用に一部屋あるんだからそっちを使えばいい。
それとも、寝室に呼ぶような人がいるの?」
言葉は、心なしか最後のあたりがいつもより、さらに冷たい。
見開いた目が信濃の瞳を捉える。
恋人を作ろうものなら許さない、とでも言いたげだ。
自分だって彼氏がいるくせに、壱花は信濃に好きな人が出来ることをあまり喜ばなかった。
好かれていることを実感することはあまりないが、きっとこれでも壱花はおねえちゃん子なのだろう、と信濃は思う。
「今は・・・いないけど。
わかった、じゃこのままにしておくね、壱花。」
素直にフリーの現状を告白してお礼を言うと、壱花の目は普段どおり無感情な様子に戻った。
「うん。」
「じゃ、ゴハン急いで作るね。」
信濃は壱花に笑いかけた。
「あ、おねえちゃんわたしも手伝う。」
妹らしい表情で、壱花が言った。
それから、信濃が怖い思いをしたことは一度もなく、隣との付き合いも何の問題もなかった。
それとなく訊いてみたが、山形自身にも何の問題もないらしい。
そういえば壱花は、嫌な感じはしない、って言ってたっけ。
きっとこれで全て解決したのだ、と信濃は思った。
そうして2、3ヶ月もすると信濃はあのさびたノコギリを処分したくなってきた。
今はいいと思う人がいなくても、そのうち彼氏もできる。
部屋にさびたノコギリを置く女。
彼氏は確実に逃げていく。
決めた、これは処分だ。
壱花に帰すと、また犬神だのなんだのとますます普通の人から遠ざかった事にハマり込むのを助長しそうだ。
「ごめんね、壱花。」
姉は、妹に更生して欲しかった。
信濃は、さびた刃が人を傷つけることがないよう、厳重にガムテープで覆うと、“犬神”を燃えないごみに出してしまったのだった。