603号室の住人、織田信濃(しなの)さん。
凛とした美人で、その上優しい。
引越しの挨拶に行ったおれに、
「何でもきいてくださいね。」
と笑ってくれた顔が、二年たった今でも忘れられない。
恥ずかしながら、あの時からおれは彼女に恋をしている。
もう三十なんだから、いいかげん家を出て嫁探しでもしろ。
そういっておれを追い出した父さんに感謝したいくらいだ。
おかげで織田さん・・・信濃さんとお隣さんになれたのだから。
とはいえ、おれと信濃さんには今のところそれ以上の接点はない。
彼女は今24歳でぜんぜん年下だし、美人で、おれはといえば、何のとりえもないただの地味な・・・おじさんだ。
ついでに、狐憑き。
ため息がでる。
タマは可愛いけれど、どうにも嫉妬深くておれが彼女を作るのをよく思ってくれない。
多少言い方は悪いが、ちょっとした障害だ。
もちろん、一番悪いのはお世辞にもカッコいいとは言えない上に、すっかりオヤジになっちゃったおれ自身なのだけれど。
などと。
楽しくない考えにおちいっているうちに、どうやら家についてしまった。
隣は、留守。
休日だし、信濃さんもどこかへ出かけているのだろう。
偶然見かけて、時々少し会話するのをささやかな楽しみにしているおれは、ほんの少しだけがっかりした。
隣に住んでるからって、そもそも会える日の方が少ないのに、今日だって信濃さんは彼氏と会ってるかもしれないのに、元々期待できる余地なんてないのに、落ち気味な気分のせいか、おれはフラれたような気になって、自宅のドアを開けた。
「ただいま、タマ。」
タマのことは、いまだにおれとしょーちゃん達以外には秘密だ。
遊びに行くときも、この辺で人間の姿にはならないよう、よく言ってある。
いつまでも大きくならない子供なんて、怪しすぎるからだ。
なので、ここはおれ一人で暮らしていることになっているが、今は周りに人が居ない。
普段ならドアをしめてからかける声を、今日は寂しくて早めに出してしまった。
返事がなかった。
「タマ?帰ってきたよー、タマー?」
呼びながら中に入っていく。
ダイニングテーブルに、メモをみつけた。
いびつな、カタカナ。
「オデカケ スル」
遊びに出たようだ。
おれは、タマにまでフラれた気がした。
なんだか急に、ものすごく寂しくなってきた。
じわり、とこの程度のことで自分が涙目になったのがわかる。
「こういうとこ、直さなきゃな。
しょーちゃんの心配する立場じゃないや。」
つぶやいた独り言で、寂しさは倍にふくれあがった。