今回のテーマなのですが、僕自身たまに書いている通り努力が非常に苦手な人間でありまして、それをどう克服するかに多大な時間とエネルギーを費やして来たという過去があります(まあ今もですが)。
だからノウハウの蓄積がかなりあるので、何かを書く資格があると自負しております。
まず最初に申し上げたい事は「努力は誰にでも出来る」は完全な嘘です。寧ろ殆どの人は出来ません。
そこから始めないと多分何も出来ないまま一生が終わります。
大多数の人は出来ない事を認めずに「出来る筈なんだけどなぜダメなんだよ、自分」とか「意志が弱いなぁ、自分」とか自分を責めて精神を病むか、或いは責めた事を免罪符としてそこで止まってしまう。そうならない人は「色々と忙しい」とかの環境のせいにしていつの間にか忘れてしまう。何れにしても実質的に諦めてしまう。
しかし諦めてしまっていても、多くは上記を指摘されて「痛い」と感じられると思います。それで良いと思います。自分を諦めてしまったら人生諦めたのと同じですから。
他人に見捨てられる前に自分を見捨てるのが必ず先に来ます。
謙虚さを失うという事は即ち自分を見捨てるという事です。
しかし努力をし切れず何も身に付けられなかった事は少なくとも貴方(貴女)自身の責任ではありません。
努力は技術や技能の一つで、単にその得方を知らなかっただけです。それは「技術」なので誰にでも会得出来ます。その限りでは確かに誰にでも努力は出来るとは言えます。
しかしそれなくして生まれながらの姿で努力は誰にでも出来て、出来るのが当たり前で、出来ない人を責める「迷信」を正しいと思いこまされ、そこから先に進めなかっただけなのです。
努力というのは一般には「辛抱力(忍耐力)」だと思われていますが違います。
もう一つ重要な柱がありまして、それは「認識力(分析力)」です。
この「認識力」というのは、自分が今しようとしている目的に対して正しい選択が出来るかを見定める力です。
これが欠けていると結果が出ないし、前進している実感が得られない。だから努力も続かないのです。ここで注意したいのはすぐに結果が出る事等多くはありません。大切なのは「実感」です。最終的にはそういう内面的なものが自分を支える事になります。
この「認識力」の具体例を挙げましょう。
例えば数学を勉強する時にどう実力をつけるかです。
結論からいえば数学の勉強時の肝は「出来ない問題を出来るようにする事」に尽きます。
という事は出来ない問題に絞って徹底的にやる事が重要となります。
結構簡単な話なのですが、これを実践している人は殆どいません。事実これを実践させた子はほぼ例外無く学年トップクラスかそれに準じた点数が取れているからです。他の子達が如何にやってないかという事です。
僕は当時甚だ方法論も生徒の結果も不完全だったとはいえ、これを早くも大学一年時の家庭教師や塾講師で成果を確認しています。18歳の時点で如何に子供達がマトモな教育を受けて無いのかを痛感しました。
だから問題集をただやるというのは弊害にさえなるのです。
なぜなら出来る問題をやる事で、出来なかった問題を再度解くエネルギーを損失し、もっと良くないのは出来る簡単な問題が解けて満足してしまって勉強をやった気になってしまうからです。成績の伸びない子の殆どはこれです。
だから問題集を「何度も回す」というのも大きな欠点があります。
普通のやり方は問題集を一回転したら二回転目に移るのですが、その時には出来なくて解答を見た問題はまた出来なくなっています。それは三回転しても四回転しても似たようなものです。
鉄は熱い内に打たないと、つまり復習はすぐにやらないと身に付けるのは非常に難しいのです。特に手数の多くなる名門校の問題だとまず無理でしょう。
上記を克服する為に自分が実践して来た解決法が以下です。
例えば問題集をやっているとして表計算ソフト等で表を作ります。それに日付をつけていきます。
昔はExcelで表を作成してプリントアウトしたものに書き込んでいましたが、今はスマホの機能がほぼPCに準じているのでファイルをクラウド化して直接入力した方がずっと効率的です。しかもそのアプリはGoogle Driveですから無料です。
つまり現代はより努力し易い環境にあるのです。ネットには上質な情報が無料で溢れてます。格差社会というのは実に表面だけの話です。ネットが無かった時代より、現代は頑張った人が報われる社会です。
一部ですが例えば以下のようになります。
問題01 3/10〇
問題02 3/10△ 3/16 3/30〇
問題03 3/10× 3/11 3/14 3/21 4/3 5/3〇
問題04 3/10〇
問題05 3/10× 3/11 3/14× 3/15 3/18 3/25 4/8〇
これを見ただけで何をしてるか分る人は分るかもしれません。
1回目で出来た問題〇は問題集やる前から出来るので以降は一切手を付けません。
△は出来たけど時間がかかってしまったり不安なものです。上記では日数を空けて3回転しています。どの位の日数を空けるか、何回やるかはこの場合は自分の実感によって変えます。
注目して頂きたいのはバツ×が付いた出来なかった問題です。極端に差を付けているのが分ると思います。
基本的に難易度が高く手数の必要な問題は次の日にすぐにやる、次が3日後でその次が1週間後でその次が2週間後、その次が1ヶ月後みたいな感じです。完璧に身に付いたのが実感出来たら、後は消えないようにと確認の為にひと月かふた月に1回とかのペースで回し続けます。
この間隔が基本ローテーションです。色々な試行錯誤の結果、多くの場合に最も効率の良い時間間隔です。
そして3回転目でまた出来なくなっていたら、また次の日にやって・・・・・みたいな同じローテーションを最初からやり直します。
こちらもやはり問題の難易度によります。上記は最高レベルの場合で、もう少し簡単な場合はもう少し崩した感じになります。当然人によっても変わって来るでしょう。本人にしか分らない「最高効率」があるのです。ここでも「認識力」が試されます。
実践すれば分るのですが、出来ない問題でしかも難問の場合には次の日にやっても危うい場合も多々あります。それだけ困難なもの、当初は「こんなの無理だろ?」というものが演習を重ねて行く内に出来るようになっていく。更には素早く正確に解けるようになる。そこまで行った時の「実感」というのが非常に大切なのです。
出来る簡単な問題をザッとやって勉強した気になる実感とは全然違います。
伸びている実感がある、「意味のある事」をやっている実感がある、それが努力のご褒美であり、それ無くして努力は絶対に継続しないのです。
そしてこの「ご褒美」というのが良く言われる「モチベーション」になります。モチベーションは何も遠い将来の目的や成功のイメージだけでは無いのです。寧ろ日々のモチベーションの方が遥かに大切なんですね。
そしてそれをもたらすものが「認識力」です。
目的に対して正しい事を出来るだけ無駄なくやる事が如何に大切かご理解頂けたでしょうか。
上記には「出来る問題を再度やる意味」も含まれているのも分ると思います。解くスピードや精度に不安がある場合には△を付けてますから。
なぜこのように絞ってやるべき問題を減らして行くのかは、(嫌な言い方かもしれませんが)多分努力した人にしか分らないと思います。
時間にも自分の労力や辛抱にも限界があります。だから勉強とは如何に無駄を省くかを最優先に考えないといけません。
やたら効率の悪い勉強を自分に強いてしまうと、自身の忍耐力の限界が「ご褒美」を簡単に超えてしまいます。それで努力が続かなくなってしまう。殆どの人がこういった陥穽に陥っています。
つまり最初の定義の「出来ない問題を出来るようにする事」というのは言い換えると「出来る問題・必要の無い問題はやらなくて良い」更にもっと言えば「出来る事・必要ない事をやってはいけない」まで行く局面も多々あります。
その位の事まで決意を持ってやらないと努力は続きません。
ここまで来ると反感を買う場合もあります。でも論理的には間違っていないですよね。
現場でやっている人間はこの意味が良く分る。
「捨てるべきものは潔く捨てる」事に対して反感を感じる人間は間違いなく努力を今していない人間です。恐らくは過去にもその経験が無い場合が殆どでしょう。
そういう戦ってない人間は「やらせればやらせる程良い」みたいに考える。
ここで特に小中高生が読んでたら、そういう大人の言う事は一切聞かなくて良いです。
やるべき事と特に「やらなくて良いもの」をハッキリ提示してくれる大人の言う事だけを聞くと良いでしょう。
もし周りにそういう大人が居なかったら、僕で良ければ幾らでも相談に乗ります。無論完全無料です。
努力というのは戦争と同じ、自分との戦いだからです。
命を賭けて無い人間に何も言う資格はない。
と僕は思っています。正直無能な大人程子供達に口を出してきます。上記のように思った事は一度や二度ではありません。
話を戻します。
要するに問題集をやる1回転目というのは殆ど「勉強」になってはいないという事を理解するのが肝要です(但し使う教材に寄ります、3回転目位までは全回転が意味のある教材も無論あります)。
上記に示した如く、1回転目というのは身に付けるべき問題、取り組むべき課題を見つける作業だからです。逆に言えば時間の浪費にしかならないような簡単な問題をふるいにかけて「捨てる」作業でもあります。
本当の勉強は2回転目からなのです。そしてそこからがキツい作業になる。
ところが多くの場合1回転で終わり。例えば予備校なら次々新規の問題を講義するだけで終わり。多くの生徒は精々やって1回の復習で終わりです。2回転目からの重要性や濃淡をつけてやる重要性を教えて、更に実行させるまで見届ける教師が皆無だからです。
最初は口で言っただけでは絶対にダメです。口で言っただけで実行に移せる人はまずいません(精々100人に1人)。通常は最低1年間は付き合ってやらないと習慣にはなりません。しかもそれを会得した所で一つのキッカケです。自力で努力出来るようになるかは先にもっと広大な原野が広がっています。
多くの生徒が努力の何たるかの入り口にも入らぬまま終わって行くという事です。再度言いますが、それは出来ないのではなく知らないだけなのです。
知れば多くの子達がかなりの知識や思考力を身に付ける事が出来ます。それを皆が知れば世の中が変わる位のものになるでしょう。その位普通の人々は知らないのです。残念ながら9割以上でしょう。
上記の問題集の全ての問題に〇を付けられた段階まで到達したとします。
その段階で次のレベルの問題集に移行出来ます。だからこの意味でも出来る限り効率的で早く先に進める方が良いのです。
受験生には時間に限りがあるのだけど、その中での競争であり、出来るだけ他人より先に進まないといけません。
しかも終わりの無い戦いです。そりゃ誰だって少しでも偏差値の高い大学に受かりたいからです。
競争相手だって毎日勉強してる訳ですから。無駄な事なんかやってられないのです。
しかしこれは社会人の大人が仕事に関わる勉強をする時だって同じです。受験生のような1年とか2年とかの期限のある競争こそ無いものの、そもそも自由に使える時間自体がありません。結局人類は皆無駄な事なんてやってられないのです。
さて、そこまで極めると問題集全体を俯瞰して、自分がどこが弱いかが分ります。だから一旦卒業した問題集でもまた復習する時にどれとどれをやっておけば良いのかすぐに判断出来ます。
このように「捨て」を見極められるようになる大切さは、レベルが上がる程高まります。
なぜならよりレベルの高い問題集に移行すればする程、今まで解いた問題数が増える事になり、それらのどれをやっても解けるという状態を維持するのが難しくなるからです。
とても過去やったもの全てを回し続けられません。忘れやすいものを厳選して回して効率的に自分の学力を維持しないといけなくなるからです。
そして数学1教科だけで済みませんから(その数学だって数科目あります)、レベルが上がる程学力管理が難しくなります。
例えば東京大学の理系なら英語、数学、国語、理科2科目です。そのどれもがトップレベルの学力が必要ですから彼らの学力管理はやはり凄いといえば凄いのです。
そうなると寧ろ「捨てるべきもの」を如何に多く出来るかの勝負なのですね。
最初の「出来ない問題を出来るようにする事」という自明といえば自明の命題の裏に、ここまでの思想と戦略があるという事をご理解頂けたでしょうか。
そこまで到達して、ようやく動けるキッカケが掴めるのです。しかしキッカケに過ぎないのも事実です。
辛抱力の高い人でも頭で考えた戦略を実行の場に移すのは簡単では無いと思います。何故なら大多数の人にとって努力する行為そのものが人生初めてだからです。
本来それを先導してやるのが教師の役割なのです。教科を通じて努力の仕方を教える。寧ろ教科の学習はおまけみたいなものです。だから勉強の代りにスポーツであっても楽器の演奏であっても良いです。何でも良いから指導してる子を「努力化」する。それが出来ている指導者は恐らく0.1%とかもっと少ないと思いますが・・・・・・・。
「認識力」を高める肝は「考える事」です。
事を始める前に徹底的に考える。事を実行している最中も徹底して考える。
そして常に成果・結果・実感を見直す。これが無い場合にはやり方が悪いのです。「認識」が間違っている。
僕は当初は勉強時間より勉強法を考えてる時間の方が長かったかもしれない位です。
正しい道の見つけ方で迷った場合には相談に乗りますが、でも結局一番良い解答を出せるのは「貴方(貴女)自身」です。
自分と一番付き合いが長いの自分自身なので良く知ってる筈ですし、自分の仕事や勉強でも一番現場を知ってるのも自分自身だからです。
僕は他人の相談に乗る時に「もっと情報が欲しいな」と思ったり、例えばかなり連絡を取った相手なのにその本質に気付くのに一年以上かかる事もあります。当たり前の話です、僕の立場等相手より遥かに少ない情報量なのです。
残念ながら簡単に「正解」を出せる立場には無いのです。やはり本人が頑張らないとどうしようもありません。
「努力」を習得するには僕の場合は10年かかりました。しかもその到達点というのは初歩的な知識や技能ならば何とか習得可能といった程度のものです。まだまだ足りないですし先は長い。
上記の「濃淡回転法」のような技術や、それを支える思想・戦略は大学受験時には甚だ未完成なものでした。そういったものの試行錯誤分も含めての10年です。今回の記事のようにある程度完成したものを実践すれば、恐らくは半分の年数位に短縮出来たと思います。
これを読んでる読者は、僕より遥かに努力に対して有利な位置にいるという事です。
相談があればいつでも乗ります、頑張って下さい。
しかしここまでの話はあくまで努力の片方の柱の「認識力」の部分のみの話です。
つまり今回の内容だけでは「辛抱力」は高くても「認識力」が低い人が努力出来るようになるだけです。
それは恐らく努力出来ない人の約半数です。今回の記事を読んだだけでは無理ですが、認識力というものを理解した上で技術を身に付ければ間違いなく半数の人は素晴らしい人間になります。
既に僕はそのような人間を多数(個人で出来る数ですが)育てた実績がありますから、これは保証出来る話ではあるのです。
まだ丸々残り半分が残っています。次の記事で「辛抱力」にフォーカスして論じます。どう「意志力」をコントロールしたら良いのかです。
ここが弱い人の方が克服は厄介だと思います。でも間違いなく克服する為の戦略も技術もあります。
最後に英語についての「認識力」の具体例を示しておきます。
当然ながら数学とは全然違います。つまり「認識力」というのは思考力であり、対象に合わせて千万変化していくものであり、何かの固定した知識とは全く違うものです。だから実践の中でしか身に付かないものでもあるのです。
以下詳しく書きましたが、最低限対象が違うとやり方も大きく違うというのをご理解頂ければ良いです。だから内容を読む時間が無ければ文章量だけでご判断下さい。
ただ恐らくこれを読んでる全ての方が英語の教育を受けておられると思います。だから以下の戦略を読んで、努力する前の準備段階が如何に大切かが分ると思いますので是非読んで欲しいとは思います。
英語といっても英会話と英語の読み書きとは全くアプローチが違います。今回は後者、つまり大学受験英語についての話となります。
さて大学受験英語の本質は何かといいますと、英文法でも英作文でもなく、ましてや単熟語等ではありません。
受験英語の本質は「英文解釈」です。まずここにフォーカス出来ないと英文法も単熟語も全部有効性を欠く事になります。英作文について一々論じませんが、受験での配点や出題する大学の数からしても本質でないのはご理解頂けると思います。
恐らくこの最初の段階で「受験英語は単語力だ」なんて行き方をしてしまう人はあまり良い結果が出なかったのではないでしょうか?
良い結果が出たとしても、かなりの浪費があったと思います。恐らく違うアプローチをしていれば、同じ労力でもっと良い大学に受かったと思います。
「認識力」の差は努力の差だけではなく、勉強の労力やその結果の自分の将来にまで影響するという事です。この点についてもっともっと人類は危機感を抱くべきでしょう。
だから英単語も英文法も英文解釈の為のものとして位置付けないといけません。
この位置付けが変わるとどうなるのかいいますと、まず英文法を徹底して固める事になります。
そして教材も当然変わります。後述しますがネクステなんて絶対に使っちゃダメという事になります。
英文法が完璧に固まるまでは英文解釈の意味は無いとは言わないですが半減します。特に目指す大学が一流大学ならば、文法が生半可な解釈はそのレベルになると殆ど伸びません。なぜなら文章が(一部の人間以外)直観では読めない位の難文が出て来るからです。なぜそうだと文法が完璧になっていないといけないのかは後述を読めば分ります。
文法を固めるというのは具体例を言うとForestの「解いてトレーニング(解いトレ)」のどの問題をやっても出来るようになり、なぜそうなるのかを完璧に説明出来る状態、という事になります。
Forestは文法だけでなく基礎的な構文や熟語だとかも入っている(後述しますがここも重要です)ので、厳密には英文法ではありませんが本文での英文法は要するにForestの内容全部という扱いとさせて頂きます。
特にForestは各章の最後に選択式の入試問題があるのですが、この正解がなぜそうなのか、間違っている肢は何を根拠に間違っていると言えるのかを説明出来るのが重要です。
あんなものは一回やると解答等覚えてしまいます。解答そのものは全く意味はありません。ところが根拠は結構難しいものがあります。というか文法的知識のしっかりしたものが無いと、なぜその肢になるのか説明出来ないような良問が多い。
ところが「正解よりも、正誤についてちゃんと根拠を説明出来るようにして来い」と具体的指示を出してもちゃんと答えられないというか、そもそもその重要性を認識して無い子が圧倒的大多数です。「認識力」が全く浸透してないという事です。そのままだとそのレベルの子達は何にも出来ないでしょう。何も出来ないまま一生を終えます。
多分ある程度以上の学力の人は言われなくても自然に解答の肢の正誤の根拠について目が行くと思います。それがあるからある程度以上の学力に持って行けるという言い方の方が良いでしょうか。
ところが上記の如く大多数の人々はこちらが指示すら根拠に目が行かないのです。
この差は一体何かです。そしてこの差は恐ろしい程の差を生み出します。そうです今流行語になっている「格差社会」の差なのです。
その差は何によって生じるのかは別の機会に譲るとして、なぜ大多数が根拠を考えらない、或いは根拠に目が行かないのかは日本の教育、下手すると文化的なものの悪影響では無いかと思っています。
学校の現場では校則にしろ、勉強にしろ、部活にしろ、生徒に課すものに対して殆ど根拠を説明しないと思います。いえ、これは家庭でも同じです。会社でも余程の知識労働の現場で無ければ似たようなものでしょう。そして課す側だって根拠が説明出来ない場合も非常に多い。
これって僕は非常に恐ろしい事だと思っています。根拠無しに従わせる、従わさせられるというのは時に異常な命令がまかり通ってしまう社会という事です。そして根拠を考えられないからその異常さも分らない。それが発覚してマスコミ辺りが批判し出すと今で言う「ブラック企業」の従業員も多少はその異常さをやっと理解し出す始末です。ただ彼ら従業員も被害者の内はまだ良いのですが、すぐに加害者にも転じます。異常さに気付かず今度は他人に異常を強要するようになる・・・・・・・・。
話を戻します。
「解いてトレーニング」の完璧の仕方については上記した数学問題集のやり方と同じで良いでしょう。
但し数学は解法を考える過程で嫌でも自動的に根拠を考えるような仕組みなのですが、英語の問題は根拠考えなくても出来てしまいます。上記でも書きましたが、熟語のような完全な暗記問題以外では問題毎に根拠を確認するという作業分が数学との違いです。
実はこの「解いトレ完璧」という次元で恐らくは9割以上の受験生が出来ていません。
最初の基礎でもう駄目なのです。だからそれ以降も全然駄目。英語が何にも解らないまま一生が終わります。
受験後にでも難しい英文に接する機会のある人なら英文法の大切さは分ると思いますが、英語の読み書きを仕事や趣味で使用する人は全体の中ではごく少数派だからです。
僕はこの事に日本の人々がもっともっと危機感を抱いて欲しいと思っています。
だからこんな何の得にもならない事を長々と書いているのです。
「解いトレ完璧」状態というものの本質を別の角度から見るとどういう言い方になるのかといいますと、一文が非常に長い英文でも「全て」について「完全に」文法的説明が出来る状態という事です。
英文というのは単語の羅列なのですが、各単語の文の中での役割を全て言える状態です。SVOの文型説明が基本ですが、各単語の品詞、カンマで区切ってある部分の働き、特に前置詞が熟語の一部なのか副詞的なのか形容詞的なのか(この辺を直観に頼ってる人が如何に多いかです、そもそも前置詞+名詞を副詞や形容詞として捉える考え方を大部分が知りません)等々です。
つまりいつでも自分の「引出し」から知識を引き出せる状態です。だから問題解答の説明が出来るようになっている必要があるのです。ただ暗記していたら、引出しから出せません。暗記がスタンドアローン(つまり単独)で応用が出来ないからです。ネットワーク(つまり紐付き)の中で覚えてこそ知識が生きるという事です。
ではなぜ文を完全文法説明出来なければいけないのかというと。
それは大して単熟語を知らなくても文法完璧にして読解に臨んだ時に分ります、という事なのですがそれではブログの意味が無いので敢えて説明を試みてみます。
要するに今目の前にある英文が読めない時に、その理由が簡単に絞れるという事です。文法知識が中途半端だと理由が文法にあるのか単語なのか熟語なのかも判別出来ません。
これは根が深くて、知っている単語であったとしても別の意味があるのではないかとか、この前置詞は熟語の一部なのではないかとか、無論自分の知らない文法知識が問われてるのではないかという疑問が次々生じて来ます。更には大学入試時点の単語力ではマトモな大学の長文問題ならば幾らでも知らない単語が登場してそこも穴になります。推論して意味を見つけないといけません。そんな状態で「読める訳ない」のです。
更に長文問題というのは一文抜けてしまうだけでも全体の把握が難しくなります(例えば僕が書いているこの文章も一文抜けたら結構読みにくくなると思います)。
上記の状態ですと読めない文章が一文では済みません。つまりその長文は何が書いてあるのか全く分らないのです。
というか余程レベルの低い英文じゃないとその長文全体の意味は分らないと思います。
でも現実はそういう状態で大部分の子が受験に臨むのが現実です。
上記のような「迷い」が生じた時点でもう駄目なのです。恐らくその文はもう読めません。厳密にいうと多くの子がテキトーに意味を考えて元々の意味と全く違った訳をしているか、もっと多いのが「何となく」読み流す。この「何となく」ってのは実際は全然意味が取れていません。なぜそれが断言できるのか言いますと、英語全然駄目だった時代の僕がそうだったからです。
英文読解は文章にあたる時に絶対の自信が無いと駄目なのです。
なぜなら上記した通り、英文読解というのは余りにも多くの要素の集合体なので、一見して読めない文章に出合った時に何がネックになってるのかを見つけ難いからです。見つけ難いという事は、当然解決する為の思考にすら入れないという事です。解決法を考える事すらさせて貰えない、何が解らないのかも分らない。英語が嫌になってしまうという事になります。
その暗中模索にも近い状況の中であらゆる推論して文章の意味に辿りつくまで取り組む執念深さは「自信」が無いと出て来ない。
「この文章は知らない単語あるけど読み切れる」という終着点のイメージが先に頭にあって英文にしがみつける。失敗するのが分っている状態では誰も真剣に取り組めないという事です。
「自信を持って臨む事が出来る理由がなぜ単熟語では無いのか?」というのは当然出て来る疑問でしょう。
それはまず身に付けなければならない知識量が全然違うのです。単熟語は一つで意味が多数あります。同じ単語でも全然違う意味を持つ場合も多々あります。それを把握してないと前述の通り「別の意味があるのではないか?」という迷いが生じてそこでもう駄目です。その迷いが生じないレベルの単熟語暗記ってどの位だと思いますか?
僕は常人には不可能な暗記量だと考えております。
「解いトレ完璧」はそれに比べると一週間合宿すればほぼものになる程度の量です。無論一週間過ぎても上記したローテーションで回すのが前提ですが。でも集中的な理解は一週間あれば何とかなるでしょう。長く見積もっても二週間です。
まずここだけでも文法完璧の方が遥かに楽なのです。
しかし実はもっと重要な要素があります。
文法がクリアになっている状態だと「クロスワードパズル」のように出来る事です。例えば前置詞には色々な種類があり、更に一つの前置詞に色々な意味があるのですが、前置詞+名詞が形容詞か副詞の働きというのを知っていればそれらの意味を殆ど知らないで訳せます。つまりどの単語を修飾するのかが判れば、嫌でもどういう繋げ方をすれば良いのか自動的に判明するからです。正にクロスワードパズルの典型といって良いでしょう。
これをもっと敷衍すれば文構造が判明すれば、個々の単語がそれにどう寄与するのかが「自ずと」つまり勝手に見えて来てしまうのです。だから一つの単語に複数の意味があってもそれを一々覚える必要は無く、多くの場合推論で正確に意味を特定出来てしまうという訳です。その逆より遥かに楽なのがご理解頂けるでしょうか。
このように「解いトレ完璧状態(文法完璧状態)」にすると以下に説明しているような難解文以外は読めるようになります。知らない単語が出て来てもかなりの精度と確率で推測出来るようにもなります。何より長文を読むのが断然楽になります。
そこから長文読解を回すと効果が絶大になるという事です。単語集の暗記なんて必要無くなります。しかも単語集で覚えるより長文読みまくった方が覚えられるし、読むのも早くなるし、単語暗記より楽しいですし、良い事づくめなのです。
単語暗記だけに絞った話だけでも恐らく同じ時間単語集で学習するのと比較すると3倍位覚える量が多くなると思います。
英文法完璧までの状態(実はその先があります)なら「基礎英語長文問題精講(中原 道喜)」辺りを回すと良いと思います。上質な英文で教養を求める人には面白い内容ですしね。やはりこれ一冊を何回も回して完璧にします。どの文章を出されても知らない単語がなく完訳出来る状態です。これにも英文部分を拡大コピーして色々と書き込むやり方があるのですが、流石にここでは割愛します。
これ一冊分の単語量でターゲット1900分位は網羅してしまうのではないでしょうか(恐らく熟語や語法等も)。英語出来る人は長文問題集一冊回しまくって単語力はそれでほぼ完成したと言う人多いです。
逆に同じ中原氏でも「基礎英文問題精講(基礎がついていても同じ基礎長文問題より難しい)」や特に「英語長文問題精講」は文法完璧までの学力ならやってはいけません。力の付かない勉強になってしまう恐れがあるからです。
なぜなら以下に述べるある技術が無いと読めない文章が多数出て来る問題集だからです。
ここまで説明すればNextStage(ネクステ)だとかアプグレでの勉強というのが殆ど無意味という事が判明します。
特にあれの文法問題で文法が理解出来るのか、文法が身に付くのか、その文法が読解に応用出来るのかと問われれば全く役に立ちません。
あれは元々知識のある人が受験前に問題慣れしたり、解くスピードを高める為に使う程度のものでしょう。しかも必ずしも必須ではありません。なぜなら志望校の過去問は必ずやるだろうからです。そこで慣れやスピードを培えば良いので。
ところがネクステ系の問題集を英文法や語法の中心に据えて勉強している受験生が如何に多いかです。
英文法完璧というのは更に先があって、それは「構文把握」という技術に必要な基礎になります。
これも例えば「ポレポレ英文読解プロセス50(西 きょうじ)」という本の英文を読んで貰うのが一番早いのですが。
文法完璧でこの本に出て来る単語(大して難しく無いです)を全部知ってる状態で臨んでも、構文把握の技術が無い人にはまず読めません。
この本の解説は文法事項が完璧になっているのが前提で説明されています。つまり「構文把握」というのは文法が完璧で今度はそれを使った高度な技術という事です。
例えて言えば「作曲」と同じです。最近はコンピュータの進化でそうでも無くなって来てる部分もありますが、曲作るのってまず何らかの楽器が演奏出来ないと駄目ですよね?
当然自分の頭の中のイメージが幾らあってもそれが表現し切れるだけの演奏技術が無いと駄目ですから、やはり演奏が巧ければ巧い程曲のバリエーションが増えます。例えばリストの曲はリストしか作曲出来ないみたいなイメージです。
和音や和声の知識も完璧であればある程良い、というかこれらの知識が本来完璧な状態が作曲の基本なのですよね。ところがポッと出て数年で消えるロックバンドはそれらが不完全だからアイデアがすぐに尽きて飽きられてしまう。自分の感性だけに頼っていてはすぐに創造力なんて限界が来るのです。
坂本龍一氏や久石譲氏がなぜ作曲家として長期間創造的な作曲が出来るのかというと、感性だけに頼らず音楽に関わる知識を駆使しているからです。因みに両者共大学の作曲科出身です。知識的技術が創造性を助け、また逆に創造性を引き出しているという事です。曲が出て来なくて覚醒剤に走った飛鳥との違いは根性の差でも才能の差でもなく、インテリジェンスの差という事なんですね。
話を戻します。
要するに構文把握に於ける英文法の知識というのは、作曲に於ける演奏技術や和音・和声の知識と同じという事です。
で、構文把握能力が試されるのは一流大学のみです。日本ですと上位10校、多く見積もっても15校までです。
因みに構文把握能力が無いと多分実用レベルで英語を運用するのは無理だと思います。
あと実用上で必要性を痛感するのは、文法事項にあまり関係の無い「慣用句」とか「口語」表現です。僕みたいに理詰めで理解する人間はそういうの苦手というのもありますが。
一方で学術用の論文、特に理系論文は受験英語で十分以上です。殆どが極めてオーソドックスな文章ですから。
そして本当に価値のある情報というのはそういう場所にあるので、受験英語も侮れないのです。
ここまでで言える事は、英語を今学んでいる最中の人は中々到達が難しい内容が多いという事です。
まだ文法が曖昧な子達はどうしても単語暗記に比重を置いてしまう。かくいう僕もそうでした。
何度も言いますが英語の知識そのものではなく、上記のような「道」を示してやるのが本来の教師の役割です。知識なんて良い参考書幾らでもあるのだからその伝授は要らんのです。
兎に角僕はそういった失敗を通して自身の「認識力」を上げないとどうしようもないと思い至った次第です。
では次の記事は厄介なテーマに取組みます。