努力しなければ、人に好かれない | ЯαYの日記

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信なくば立たず

加藤ミリヤという人が以下のように言ってました。16歳で歌手デビューした人です。
  

「若い時は、根拠の無い自信があって色んな意味で無敵。周りの目を気にしないでやりたいことをやって欲しい」
デビューして8年目になる加藤は「良い意味で勘違いがあったからデビュー出来たのかも」と自身を振り返りつつ、「大人になって根拠の無い自信は段々無くなってきましたね。努力することが大事なんだと気付きました」と語った。

「あのミリヤさんがねぇ」とちょっと感心しつつ、考えてしまいました。
というのは最近つくづく感じる事がありまして。
 
「家族愛」ってありますよね。
恐らく自分の品質や努力に関係無く、無条件で好意を持ち続けてくれるのは「家族」という事になるでしょう。
だから「感謝してます」「大切です」とか言う人やたらいるんだけど、まあそれはそうでしょう。努力もしないでそのままでも好いてくれるんだから、こんな「楽」な事はありません。
このような愛を「自分品質の問われない愛」と命名しております。
 
じゃあ「家族」以外で誰かに本気で想われたり、本気で尊敬されたり、本気で慕われたり、というのはその人達はありますかね?
家族と同じ位の親近感と信頼を得られているのか。
一番分りやすいのは「恋愛」です。なぜなら友人関係とは違って、恋愛はその先に結婚の可能性があり、結婚というのは血の繋がっていない家族形成だからです。
では、その恋愛で家族レベルの長い付き合いや「絆」が実現できているのか、という事になりますが。
殆どの人にとって「全然」ではないでしょうかね。

仮に結婚している場合ですら、奥さんの尊敬を得られている男性は非常に少ないですし。
    
つまり家族以外の「愛」を得るのは著しく困難という事です。
その困難さというのがなぜ生じるかといいますと、自分が相手にとって価値があったり何らかの利益を提供出来なければいけないからです。自分という人間の「品質」が問われる。
 
で、家族以外の「愛」でも信頼や尊敬なりが得られて、初めて人として一人前なのではないかと思う訳です。
逆に自分に何の条件も必要無い状態で愛や信頼を得るというのは違和感さえ感じます。
そういった意味で「家族愛」というのはそんなに素晴らしいものなのか僕は疑問なんです。
「家族愛」アピールするのは、自分の生まれつきの才能、例えば運動神経が良いとか容姿が良いとかのアピールと殆ど変わらないと解釈してるのですが、間違っていますかね。
生れつき持ってるものなんて何の価値も無い、というと言い過ぎでしょうか。
  
僕が「自分品質の問われない愛」関連で「これはちょっと違うんじゃないか」と感じた例を挙げます。
   
例えば行きつけの美容室(或いは床屋)があって、何年も通ってるとします。
店主1人でお店を経営してる場合にはある程度親しくなる場合もありますよね。
で、ある時明らかな集中力の欠如による凡ミスでヘアスタイルを失敗したとします。
でその店主に「ちょっと失敗しちゃったけどいいよね?(笑)」って言われたら如何でしょう。
言い換えると「俺たち友達だしその位許せるよね?」って事です。
親しくなるとそういうふうに勘違いする人が必ず出てくる。多分そういう人の方が多いかもしれません。
 
あるキャバ嬢のツイート 。
「客から毎日病みメールが30通以上届く。俺のこときらい?きっと店に行かなくなったら会ってくれないよね?って。おんなじことばっかり。えぇ、その通りですけど何か。」
大金を払ってやっと会って口をきいて貰える立場の人が、どうしていきなり相手の好意を得られるのですか。
或いはカネを払った分のサービスを受けているのに、それ以上を求める資格・権利がどこにあるのか。
という話です。
 
キャバクラとかは人間関係がカネの結びつき(というか関係性をカネで買う)だけであるので非常に分りやすい世界なんです。だから例として挙げやすい。
つまり実は本物のカネが介在していないだけで、本来人間関係というのは殆どカネのやり取りに近い、つまり商売に近い性質なのではないかという事です。
自分が相手にサービスや何らかの価値を提供する。相手もそれに見合った分を提供する。
もし恒常的にそのアンバランスがあるならば、その人間関係は普通続かない。
これを読んでる人だって、友人や恋人が常に自分におんぶにだっこだったら嫌になりませんか?
  
結論。
「家族愛」以外は恐らくは「生まれた時のままの自分」ではまず好かれる事は無い。
自分に何らかの付加価値が無いと駄目。
その為には「努力」が必要になってくる。
 
ちょっと補足しておきましょう。
特に女性の場合は容姿が良いと無条件に好かれる場合があります。
一見努力無しに男性に好かれているように見える。
しかし女性の容姿で近づく男性というのは「Hがしたいだけ」です。
多分本質的に好かれてるのとは違うでしょう。「私のどこが好き?」と聞いて「顔のみ」という答えが返ってくるのを想像してみると良いと思います。

  
「Hしたい女」と「恋人にしたい女」は違う、というのが大多数の男性の意見です。
なまじ容姿が良いと自分が男性にどう想われてるのか中々切り分けが難しいのが難点なんですね。
「Hしたい」としか思われてなかったのに、「自分が愛されてる」と勘違いして「ヤり逃げ」されたという話は良く聞きますが、そういった人は殆ど容姿の良い女性です。
    
まるで「人に好かれる」義務があるような書き方をしてるふうに受ける方もいらっしゃるでしょうが、もっと後退した意味でも多分自己に対する努力は必須なんです。
山奥に篭って完全に一人で暮らす人は殆ど存在しない現状ですと、嫌でも仕事等で他人と関わらざるを得ません。
皆様どんな人と接していても長く接していれば、どこかしらその人の「ここちょっと嫌だな」と思う事があると思います。
中には非常に他人に不愉快を与える人物も存在するでしょう。これも決して少なくないかもしれません。
せめて他人に迷惑がかかったり不快感を与えてしまう部分は修正する「義務」があるのではないか。
というのが僕の考えです。
「不快感」というのも相手の我侭に付き合うのとは違います。微妙な線は置いておいて、明らかに自分がマズい部分です。
 
で、生れつき何の修正も無しに他人に不快感を与えない人はほぼ皆無に近いので、本来誰でも最低限の人格面での努力は要請されていると僕は考えています。

それは一体どういう事なのか?
 
「怒りっぽい」というのは比較的分りやすい欠点だと思います。
これがなぜ欠点になるのかというと、仮に相手に落度があったとしても「怒る」必要なんて無いどころか有害でしかありません。
殆どの場合そういった私情を挟むと相手が逆ギレして反省の芽を潰してしまったり、逆に恐怖や不安を喚起してしまって肝心の怒った理由の理解を妨げてしまうからです。
 
で「自分ちょっと怒りっぽいな」というのは、中学生位には気付くでしょう。遅くとも高校生までには友人にも指摘されるでしょうし気付かない事はまずありません。
早い人だとその気付いた時点で修正を始めて20歳になる前にほぼその欠点を修正します。
しかし30歳になっても明らかに「怒りっぽい」という人(結構いますよね)はどうでしょうか。
しかもその年齢まで修正も出来ないような人ですと、相手に落度が無くても怒り散らします。
どれだけ無実の人々に不快感を撒いてるのだろうかという事です。
こういった部分は本来修正して貰わねばならない部分とはいえないでしょうか。
  
一つの目安ですが、30歳以降で客観的に見て「この人怒りっぽいな」と感じる人は下の下とまでは言いませんが、下の中程度の人物です。
30歳以降で人格面でかなり目立つ欠点がある人は、いずれも「下」の範疇に入ります。
しかもそのクラスの人物というのは謙虚さが無いので成長しません。30歳でそうですと一生そのままです。
冷静に考えると怖いことなんですね。
こういった人に職場だとかで関わる事が避けられない状況になった場合は、かなりの覚悟で臨む必要があります。
喧嘩するという意味では無く、恐らくこちらがしっかりガードしてないと多少繊細な人だと精神をやられますので。
  
因みに「上」に位置する人物ですと、反省する能力があるので更なる修正が期待出来ます。
「上」にランクされていると、更に上に行く可能性が高い。
人格的レベルというのは最終的には恐ろしく差が付くものです。
 
なので「やっぱり努力が必要なんだなぁ」と思う次第です。
僕自身は元々は努力が非常に苦手な人間で、出来ればしないで済ませたいと思ってた位なのですが、最低限のソレはもう逃げる訳にはいかないと痛感しております。
 
ただ何かの技能・専門知識を習得する「攻め」の努力と、自分の人格的欠点を修正する「守り」の努力ならば後者の方がかなり楽です。
別に魅力的な人物にならなくても良いです。
せめて他人に「ちょっと嫌だな」と思われてしまう部分は消したい。

しかし人格的欠点が少なくなるだけで、結局かなり評価されますが。

これはそういった最低限の努力が出来てない人がエラい多いという事なのだろうと思います。
   
しかし。
自分からみて「この人と友達になりたい」とか「関わってみたい」とか思う人って「何か」を持ってる人なんですね。
それは上記でいえば守りの努力だけでなく「攻めの努力」もしている人です。
自分はそれをしてないで、相手はそれを常にしている状況で「僕の友人になって下さい」とは言えません。    
もしそれだけの人物と対等に付き合いたいならば、相応の価値が自分になくてはいけません。
   
前述の通り僕は努力が苦手な人間ですが、上記のように思ってしまう以上は諦めて地道に精進するしかないというのも痛感しております。
無論残念ながらまだまだの状態ですが。
 
今までの僕の経験では。
努力するのはかなり辛いと感じる事があるのですが(僕は大した努力なんてしてないですが)。
でも努力をせず楽をして、相応の友人や恋人と付き合うのより、辛くても努力してレベルの高い人と付き合う方が絶対に良いです。

 
なぜかというと、他人に不快感にさせられるより、自分の努力の過程で辛い想いをするのなら、遥かに後者の方が別に楽ではないですが納得がいくんです。
納得して辛い想いにも耐えて、良い人と付き合えて、そっち方面では不愉快が無くなるという流れです。しかも自分も高まる。

合理的かつ効率的。これが最も重要かつ美しい。 

 
という訳で臥薪嘗胆っ(`・ω・´)